本田圭佑選手は自らの努力によってのみ成功したのか?ピーター・シンガーは、否と言う(だろう)

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サッカー・本田圭佑選手の下記ツイートが話題となっている。

すでに本田選手に対しての批判は各方面から提示されており、筆者は荻上チキ氏による一連のツイートや望月優大氏のブログに賛同する立場だ。

望月氏の「好きなサッカー選手であるだけに個人的には残念な気持ちになった。」という指摘について、筆者も全く同じ気持ちであるが、中でも共感したのが、下記の一文である。

本田氏ほどの人でも、そこらへんにいる「成功おじさん」から転化した「自己責任おじさん」たちとほとんど変わらなかったというわけである。

自分も起業家の端くれであるが、いわゆる起業家の中には「成功→自己責任おじさん」は少なくないように思う。彼らはしばしば新自由主義者として批判されがちだが、今回の一件は、「なぜ成功者は”自己責任おじさん”へと変貌しやすいのか?」という問いを改めて考えるきっかけとなった。

そして、この問いには一般的に、「成功者は、自分の成功に拘泥しやすい」や「人は、自分と同じように他人も頑張れるはずだと思い込む」、「彼らは愚かにも、自分は努力しており、他人は努力していないと決めつけている」などの回答が用意されている。

しかしそうした回答は間違ってはいない気がするものの、全面的に納得感があるわけではない。どちらかというと、それは「成功者はバイアスに囚われやすい」ことを前提にしているが、実際にはかなり多くの人が「自己責任論おじさん」になりかけた瞬間がある気がするし、そうであるならば、正しい問いかけは、「なぜ人は自己責任おじさんへの道に開かれているのか?」というものだ。

そう考えると、1つの仮説が見えてくる。それは、「人は”自己の能力によって成功を勝ち取った”というストーリーに喜びを感じるため、それに反駁されると否定的な感情を抱く」という前提で、「その感情を覆すには、よほど納得感のあるストーリーに出会う必要がある」というものだ。

人は感情的な生き物であり、(おそらく誰であっても)自らの成功をその努力によって正当化したがる。そのため自分の成功が、あたかも運や環境という”自己責任の適用外”に追いやられた時、当人が不快な気持ちになることは容易に想像がつく。

そうであるならば、こうした不快感を突きつけられた人を説得するためには、2つの道筋が必要となる。1つは彼らの感情に寄り添いつつ、自己責任論では解決できない問題があると丁寧に説いていく方法、そしてもう1つは、こうした感情を乗り越えるほど、納得感のある論理を提示することだ。

ジルとジャックの話

自己責任論を考える上で、哲学者ピーター・シンガーが自著『実践の倫理』で提示している、ジルとジャックの物語は非常に納得感のあるストーリーだ。そこで、この2つ目の道筋を辿るため、少し長くなるが以下でその部分を引用する。

ほとんどの西洋社会では、収入や社会的地位の大きな差は、平等な機会という条件のもとでえられたものであるかぎり、ふつうは当然なことだと考えられている。つまり、ジルの収入が20万ドルであり、ジャックの収入が2万ドルであっても、ジルが今占めている地位につく機会がジャックにあったのなら、そのような収入の差は不正ではない、と考えられている。

たとえば、その収入の差が、ジルは医者でありジャックは農夫であることからきているとしよう。ジャックが、医者になる機会をジルと同様に持っていたとすれば、この収入の差は容認できるということになる。おなじ機会を持つというのは、ジャックが、人種や宗教、医師となる能力とは無関係な障害、あるいはそれに似た理由で医学部に入学できなかったのではない、という意味に解されている。

実際、ジャックの学校での成績がジルの成績と同じ位よかったならば、彼は医学を勉強して医師になり年収20万ドルを得ることができたであろう。この見方によれば、人生は一種のレースであり、みんなが同じスタートをきる限り、勝者が賞をえて当然なのである。この同じスタートが機会の平等ということであり、そして平等とは機会の平等でなければならない、と主張する人もいる。

ジャックの学校の成績がジルの成績と同じ位良かったならジャックは医学部に入学したと思われるということを理由として、ジャックとジルが医者になる平等な機会を持っていたと主張するとすれば、平等な機会ということについてごく表面的な理解しかしていないことになる。このことは、さらに検討してみればすぐ明らかになる。

我々は、なぜジャックの成績がジルの成績ほどよくなかったのかを問題にしなければならない。おそらく高校までのジャックの教育が劣ったものだっただろう。たとえば、一クラスの人数がより多かったとか、先生の質があまりよくなかったとか、教育環境が十分でなかったとかがあったかもしれない。真の意味での機会の平等を語ろうとするならば、学校教育が全員に同じ利益を与えているということが前提条件とならなければならない。

学校を平等にするということは相当困難なことだろう。しかし、機会の平等を徹底して擁護しようとする人が克服していかねばならない数々の課題のうち、これは最も簡単なことなのである。たとえ学校の条件が同じだとしても、ある子供たちは自分の家庭状況によって有利な立場におかれるだろう。静かな勉強部屋や多くの本を与えられ、両親が学校で良い成績を収めるようにと力づけてくれたから、ジルが医者になれたも言えよう。

他方、ジャックの方は、弟二人と相部屋の上、「外で食い扶持をかせぎもせず本ばかり読んで時間をムダにしている」という父親の小言を我慢しなければならなかったから、医者になれなかったと言うこともできよう。

しかし。どのようにして家庭を等しいものにすればよいのだろうか。あるいは両親を等しいものにするにはどうすればよいのだろうか。家庭を単位とする伝統的な制度を廃棄し、子供は共同体の託児所で育てるのだというほどの心構えができていないかぎり、家庭や両親を等しいものにすることはできない。

機会の平等を平等の理想とする考え方の問題点は右の議論で十分示されただろう。しかし、さらに機会の平等説に対する最終的な反論を述べなければならない。(略)たとえ我々が子供を、イスラエルのキブツでなされているように、共同体の責任で育てるとしても、子供の方はいろいろに異なる能力や性格―そこにはさまざまなレベルの攻撃性やIQのばらつきも含まれる―を遺伝的に受け継いでいるだろう。

子供の育つ環境における差異を取り除いても、遺伝的特性における差異をなくすことはできない。もちろん、環境面での対策が、たとえばIQにおける不釣合いを減少させることができる、ということは認められなければならない。というのは、現状では遺伝的差異が社会的な差異によって増幅させているとおおいに考えられるからである。

しかし、遺伝的差異は存在し続けるだろうし、ほとんどの見方によれば、遺伝的差異が、IQにおいて現在見出される差異のでてくる主たる理由なのである。(略)それゆえ、機会の平等は、魅力ある理想ではない。それは、おもしろくてしかも金が入る職業につけるような能力を遺伝的に受け継いだ幸運な人を優遇するものである。それは、同様の成功を収めたいと思ってもその遺伝子のゆえにそれがうまくいかない不運な人を冷遇するものである。

いかがだろうか?

もちろんシンガーはこの後、社会主義を擁護しはじめたりしないので安心してほしいし、この引用部分は、彼が展開する功利主義に関する議論のごく一部にすぎない。

しかしここで改めて思い知らされるのは、機会の平等ですら非常に疑わしい理念であり、よく言えば、個人の成功は多くの運や環境によって成立しており、元も子もなく言えば、遺伝的差異のように如何ともし難い、人々の間にある違いは確かに存在しているということだ。

ベストセラーとなった『国家はなぜ衰退するのか?』の著者であるダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンに言わせれば、個人の成功は、その人が属する社会・経済の制度によって可能となる。

シンガーの議論とアセモグルの議論はだいぶ毛並みが違うが、個人の成功を考える上で、その努力のみが決して重要な因子ではないことを証明している点では、似たようなものだ。学術的な知見を踏まえて言うならば、自己責任論は非論理的な発想であり、擁護することはかなり難しいものと言えるだろう。

本田圭佑選手はもちろん直接的に自己責任論を擁護しているわけではない。そしてこうした議論についても、もしかしたら「そんなことは当たり前だ。人には能力の差があることを前提で、それを跳ねのけるほど努力が大事だ!」と反論するかもしれない。並外れた努力を成し遂げた本田氏の主張は、決して誤ったものではないし、彼はそれを噛み締めながら努力したからこそ、ACミランで10番を背負うほどになったのだろう。

しかしそれが自己責任論へと繋がり、そうした能力を生まれつき得ることができなかったばかりか、その能力差を埋めるコストを払うことができなかった人々を貶めるようになった瞬間、それは大きな誤りへとつながっていく。

我々は皆、自己責任おじさんへの道に開かれている。そしてだからこそ、折に触れて自己責任論がいかに問題点を孕んでいるかを自分に言い聞かせる必要がありそうだ。

AUTHOR

石田 健

石田 健

株式会社マイナースタジオ代表取締役CEO。同社を創業後、2015年に株式会社メンバーズ(東証一部)に企業売却。早稲田大学政治学研究科修士課程修了(政治学)。Twitter : @ishiken_bot