Emmanuel Macron(Jacques Paquier, CC BY 2.0), Patrice Talon(U.S. Department of State), Illustration by The HEADLINE

なぜ今、アフリカの文化財が返還されているのか = 植民地主義からの脱却?

公開日 2023年01月27日 12:52,

更新日 2023年09月07日 03:19,

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この記事のまとめ
アフリカから略奪された文化財を返還する動き、欧米で広がる
⏩ アフリカの文化財の90%以上が、欧米などアフリカ外にある
⏩ BLM運動や対アフリカ外交の活発化を背景に返還が加速するが、十分ではない
⏩ 植民地時代から続く不平等な構造から脱却し、文化を取り戻せるかがカギ

2022年12月20日、ドイツのベアボック外相はナイジェリアの首都アブジャを訪問し、1897年にイギリス軍によって略奪された文化財20点を返還した

両国は7月の時点で、ドイツの美術館・博物館に所蔵していた文化財、計1,100点を返還することで合意していた。その時点で法的な所有権は全てナイジェリアに移っていたが、今回の返還を皮切りに2023年にかけてさらに多くの文化財がナイジェリアに渡る予定だ。ナイジェリアからの長期貸出としてドイツに留まるものもある。

今回の返還は、欧米諸国の間でここ5年ほどで加速した文化財返還の動きを受けたもので、これまでで最大規模の返還事業となる。欧米諸国はこれまで、アフリカ諸国が独立後から半世紀以上に渡って文化財の返還を求めてきたのに対し、ほぼ一貫して拒否してきた。なぜ今、返還する方針に転換したのだろうか?

背景には、過去の植民地支配を批判的に捉え直す動きが広まっていることや、対アフリカ外交の重要性が高まっていることなどがある。一方で、返還にあたっては、その方法や体制整備など実務的な課題がある。また返還の取り組みそのものにアフリカ側の声が十分に反映されていないという懸念もある。

本記事では、そもそもアフリカから略奪された文化財とはどのようなものなのか振り返った上で、なぜ今返還が行われているのか、返還に向けた課題が何か解説していく。

アフリカから略奪された文化財とはどのようなものか?

返還の動きが広がっている文化財は、19世紀後半から始まったヨーロッパ列強による植民地化の際、アフリカから持ち去られたものだ。

ヨーロッパからやってきた軍人や植民地行政官などは、アフリカを文明化する使命("civilizing mission")が自分たちにあると考えた。彼らはアフリカの土地を征服するにあたり、そこにすでに存在していた王国を滅亡させ、自らのものとは異なる生活様式や知識体系を破壊した。そしてそこから文化財や人体の一部などを本国に持ち帰り、元の知識体系から切り離された「物体」として扱った。

キリスト教の宣教師も、文化財の略奪や破壊を行った。彼らはアフリカの文化や習慣をより良く理解することが効率の良い布教、さらには植民地化に繋がると考えた。そして略奪した文化財を民族学者などとともに研究目的で使用した。

略奪された文化財は、ヨーロッパ本国において「戦利品」として博物館や個人のコレクションに加えられた。それらは帝国主義的野心の喧伝や、アフリカの人々の「原始性」の描写に使われ、ヨーロッパによる「文明化する使命」をより一層正当化するために利用された

一部の文化財は、オークションや美術品市場を通じた売買により北アメリカにも渡った

サブサハラ・アフリカ由来の文化財、90%が大陸外に

The Africa ReportLe Mondeによれば、現在、サブサハラ・アフリカ(*1)が本来の由来である文化財の90%以上がアフリカ大陸外にあるとされている。

そのうち、50万点以上がヨーロッパにあり、北アメリカには7万5,000点ある。具体的には、イギリスの大英博物館が6万9,000点、ベルギーの中央アフリカ博物館が18万点、フランスのケ・ブランリ博物館が7万2,000点、ドイツのフンボルトフォーラムが7万5,000点、アメリカのニューヨーク・メトロポリタン美術館が3万5,000点をそれぞれ所蔵している。

一方でアフリカでは、ナイジェリアの国立博物館とケニアの国立博物館がそれぞれ4万5,000点、コンゴ民主共和国(DRC)の国立博物館が4万点所蔵している。自身の文化に関するコレクションなのにも関わらず、個別に比べても欧米のコレクションと同程度か、より小さい規模でしかない。

(*1)サハラ砂漠より南のアフリカを指す。

近年の返還の動きは?

こうした略奪を経て欧米の博物館で所蔵されるようになった文化財を、アフリカへ返還しようという動きが、ここ5年ほどの間に相次いでいる。

冒頭で述べたドイツが返還した文化財は、1897年にイギリス軍がベニン王国(現ナイジェリア)に遠征した際に略奪したもので、「ベニン・ブロンズ(Benin Bronzes)」と呼ばれている。ベニン王国の宮廷で、王を示すオバ(Oba)のために作られたもので、青銅の他に真鍮、木、象牙でできた彫刻や像、レリーフなどがある。


大英博物館(イギリス・ロンドン)に展示されているベニン・ブロンズのレリーフ。2022年2月に筆者撮影。後述の通り大英博物館はベニン・ブロンズの返還に応じていない。

ベニン・ブロンズの返還は、今回のドイツによるものが初めてではない。直近では、アメリカのスミソニアン博物館ニューヨーク・メトロポリタン美術館、イギリスのホーニマン博物館ケンブリッジ大学のジーザス・カレッジ、スコットランドのアバディーン大学などがそれぞれ返還を行った。

フランス政府は、1892年にダホメ王国(現ベナン)から略奪した26点の王宮芸術品を2021年11月にベナン政府に返還した。王を模した2メートル大の木像や玉座などが含まれ、それまでパリのケ・ブランリ博物館が所蔵していたものだ。また、2019年11月には、19世紀に現在のセネガルやギニア、マリにあたる範囲を支配し、フランス軍と闘った武将のものとされる剣と鞘をセネガル政府に貸し出し、その後正式に返還した

レオポルド2世の私領としてかつてのコンゴ自由国を支配したベルギーは、2022年2月、1885年から1960年までに持ち出され、現在は同国の王立中央アフリカ博物館が所蔵する彫刻や仮面、食器、楽器などの8万4,000点のリストをDRC政府に提出した。今後返還に向けて、それぞれがどのような状況で持ち出されたのか調査を行うことになっている。

なぜ今、返還しているのか?

アフリカ諸国は、1960年前後の独立以来文化財の返還を求めてきたが、欧米諸国がそれに応じることはほぼ無かった。

流れが変わったのが、2017年のフランスのマクロン大統領の発言がきっかけだ。そして、ヨーロッパによる過去の植民地支配を捉え直す動きと、対アフリカ外交の重要性の高まりを背景として、欧米各地で返還が真剣に検討されるようになった。

マクロン大統領の返還表明とサール・サヴォワ報告書

文化財返還が広がるきっかけとなったのは、フランスのマクロン大統領が2017年11月にブルキナファソのワガドゥグ大学で学生を前に行った演説だ。

……アフリカのいくつもの国の文化遺産の大部分がフランスにあるということを、私は受け入れることができない。それには歴史的な説明があるとはいえ、妥当で、持続的で、絶対的な正当化の根拠はない。アフリカの遺産は私的なコレクションやヨーロッパの博物館のみにあるべきではない。それはパリだけでなく、ダカールや、ラゴスや、コトヌでも鑑賞されるべきで、このことが私の優先課題の1つだ。これから5年以内に、アフリカの遺産をアフリカへ一時的か最終的に返還するために必要な条件を整えたい

フランス政府はそれまで、国有財産の譲渡を禁じる法律を理由として文化財の返還を拒否していただけに、この発言は返還を求めてきたアフリカ政府関係者や市民社会組織から驚きをもって受け止められた(*2)。前年の2016年にベナンのタロン大統領がダホメ王国から略奪された文化財の返還を求めた際には、フランスの外相は同じく法律を理由として拒否していた

その他の欧米諸国も同じように法律や、アフリカ側の文化財の保存体制が不足していること、また文化財へのアクセスを国際的に確保する必要性などをあげて、返還を拒否してきた。マクロン氏がフランスだけでなく「私的なコレクションやヨーロッパの博物館」と言及したことで、ヨーロッパ各地の博物館、そしてそれらから文化財を購入したアメリカの博物館も、その動向が注目されることとなった

その後マクロン氏は2018年3月に、セネガル人の作家で経済学などが専門の大学教授であるフェルウィン・サール氏(Felwine Sarr)と、フランス人の美術史学者であるベネディクト・サヴォワ氏(Bénédicte Savoy)に、フランスにあるアフリカの文化財の歴史やその返還のあり方について、調査を行うよう依頼した。その結果、同年11月に発表されたのがサール・サヴォワ報告書だ。

(*2)マクロン氏が突然文化財返還の方針を表明した理由としては、後述するように当時からすでに悪化しつつあったフランスのイメージを改善し、アフリカとの関係を刷新する糸口にしたかったものと考えられる。また、それまでのフランスの政治家によって繰り返されてきたアフリカを見下す態度とは違うということを示したかった可能性もある。例えば、2007年に当時のサルコジ大統領は、セネガル・ダカールの大学で同じく学生に向けた演説で、「アフリカの人間は歴史の中へ十分に入っていない」「同じ行動と同じ話を永遠に繰り返している」「人間による冒険や進歩のための考えが入り込む余地がない」などと述べて厳しい批判に晒された。もっとも、マクロン氏自身も、2017年7月のG20の場において「アフリカの問題は文明的なものだ」と述べて、人種差別的として批判されたことがある。

不均衡な関係において行われた文化財の略奪

「アフリカの文化遺産に関する報告書:新しい関係性の倫理に向けて」と題されたこの報告書は、その題名が示唆するように、植民地時代からの西洋とアフリカの不均衡な関係によって文化財が奪われ続けてきたことを認識し、返還に取り組むよう促している。

まず報告書によれば、文化財の略奪は、ヨーロッパの白人とアフリカの黒人の間の極めて不平等かつ暴力的な関係において行われた「民族に対する罪(un crime contre les peuples)」である。そして返還について語ることは、正義や(ヨーロッパとアフリカの間の関係の)再均衡などについて語ることであり、両者の関係性がいかにあるべきかについて改めて考えた上で新たな文化的関係を構築することであるとした。

その上で報告書は、軍の遠征による戦利品としての略奪や、民俗学の研究のための収集、植民地の行政官などの個人による寄付、アフリカ諸国の独立後の密輸といった、それぞれの文化財の取得経緯に関わらず、返還の求めがあればそれに応じるよう勧告している。文化財の返還とは、「文化財の正当な所有者にその使用権と享受権、およびその文化財が与える全ての特権を回復する」ことであり、それは一時的ではなく永続的なものでなければならない

最後に報告書は、2018年11月の報告書発表時から5年程度のタイムフレームの中で、文化財の返還のために取るべき具体的な措置も提案している。その中で特に、

  • 多くの博物館において未だ不完全な所蔵している文化財のリストを、フランスとアフリカ双方の専門家が共同で作成しインターネット上で公開することで、それぞれの文化財の存在をアフリカ側に明らかにし、返還の要求を行えるようにすること

  • 文化財をデジタル化し1つのポータル上に集約して無料で公開することで、海外の人も複数の博物館に跨って文化財に触れられるようにし、文化財の透明性とアクセスを改善すること

  • フランスとアフリカ各国において、双方の博物館学芸員や、遺産の保存に関わる専門家、地元コミュニティの代表者が返還に関する専門知識・技術を共有するためのワークショップを定期的に開催すること

  • 返還の要請があった際にフランスとアフリカ双方の専門家からなる合同委員会を設置し、対象の文化財の来歴調査やリストの作成を行った上で返還の方法について勧告すること

  • 国有財産の移転を禁じた法律を改正しフランスとアフリカの国との間の二国間合意に基づいて返還を例外的に可能とすること

などを求めた。また、マクロン大統領が当初示した「5年間」という期間に拘らず、上記の措置を継続して行い、アフリカ側から返還の要請があった場合にはいつでも応じるべきとしている。

Black Lives Matter 運動が促した過去の植民地支配への批判

マクロン氏の文化財返還の方針やサール・サヴォワ報告書は、長年に渡って返還を拒否してきたヨーロッパ各国政府の姿勢を転換するよう促す画期的なものであった。しかし、これらが発表された当初、ヨーロッパの博物館や文化政策関係者は必ずしも返還に前向きではなかった。

マクロン氏の返還方針の表明直後は、アフリカの文化財に留まらず、世界各地から集められた文化財に返還が要求されることへの懸念が高まった。また、サール・サヴォワ報告書に対しては、ヨーロッパの博物館のコレクションが一気に減少することや、返還先のアフリカの所蔵体制の不十分さを指摘する声、また植民地時代に起こった文化財の移動をその経緯に関わらず糾弾し、アフリカの文化財にヨーロッパで触れる機会を無くそうとする報告書の姿勢への反発などがあった

返還に向けた機運をさらに高めたのは、Black Lives Matter運動だ。

2020年5月にアメリカ・ミネソタ州でジョージ・フロイド氏が警察に殺害された事件をきっかけに全米に広まったBlack Lives Matter運動は、その後ヨーロッパにも広がった。現代の黒人に対する差別の原点として、過去の奴隷貿易や植民地支配に批判が向けられるようになったそして、返還に消極的な姿勢を示し続ける博物館にも、植民地主義に誠実に向き合っていないとして圧力が増すこととなった

例えば、ドイツのベルリンで2020年に新たにオープンしたフンボルトフォーラムに対しては、アフリカやアジア、オセアニアなどからの2万点近くの展示品を巡ってそれらの来歴調査を十分に行っていないとして抗議運動が起こった

また、フンボルトフォーラムは、かつて植民地政策を推し進めたドイツ帝国時代の「ベルリン王宮」の跡地に当時の姿を模して再建された。その中に植民地から奪われた文化財を展示することで植民地主義を美化するのか、という批判もあった。

他にも、イギリスの大英博物館は、ジョージ・フロイド氏の死去後、Black Lives Matter運動に連帯を表明するとして館長名義の声明をTwitterにスレッドで投稿。その中で「我々はあらゆる意味での暴力からの保護や平等な権利を否定されたすべての人と立ち上がります。これらは私たちが社会として取り組むべき課題であり、克服されなければならない不正義です」などと述べた。

しかし大英博物館は、植民地から略奪された文化財を世界で最も多く保有しているとされている。中でも900点以上のベニン・ブロンズについてはナイジェリアからの度重なる返還要請に応じていない。

このTwitter投稿に対して、南アフリカのプレトリア大学政治学部教授のシテンビレ・ムベテ氏(Sithembile Mbete)は「世界中の黒人コミュニティから盗んだものを返してくれるのか?」と疑問を投げかけた。また、ナイジェリアにルーツをもつ英国人作家のボル・ババロラ氏(Bolu Babalola)は「アフリカの宝を返せ、このちんぴらどもめ」と怒りを露わにした

また、『野蛮な博物館』(原題は”The Brutish Museum”。大英博物館(The British Museum)のもじり)の著者で、オックスフォード大学の現代考古学教授のダン・ヒックス氏(Dan Hicks)は、「大英博物館は数万人のナイジェリア人が殺された1897年の武力攻撃で持ち去され、それからずっと『勝利』の記念として展示されているベニン・ブロンズの返還要求を拒否し続けているのだから、これはうわべだけの主張だ」と批判した。

文化財の略奪以外にも広がる過去への問いかけ

過去の植民地支配を捉え直す動きは、文化財の略奪についてだけでなく、当時の残虐な統治のあり方にも及んでいる

ドイツは2021年5月、当時支配下に置いていた「ドイツ領南西アフリカ」(現在のナミビア)で1904年からヘレロ人とナマ人に対して虐殺(ジェノサイド)を行ったことを認め謝罪するとともに、経済支援を表明した。

ベルギーは2022年6月、DRCの独立を率いたパトリス・ルムンバ初代首相を1961年に暗殺し、その遺体を硫酸で溶かした事件への関与と責任を認めて謝罪した。遺体の遺棄に関わった元ベルギー人警察官が土産として持ち帰っていた歯を遺族に返還した。

フランスでは2021年に、1954年から1962年のアルジェリア戦争に関するフランスとアルジェリアの記憶を巡る和解に向けた報告書がマクロン氏の要請のもと歴史家の委員会によって公表された。また、植民地支配下ではないものの、1994年のルワンダで起きたツチに対するジェノサイドにおけるフランスの責任を認める報告書も同様に歴史委員会により公表された。マクロン氏はその後5月にルワンダを訪問し、フランスの責任を初めて認めた。

またオランダも2022年12月、17世紀から19世紀にかけて、アフリカとアジアの60万人以上を奴隷貿易で売買し、アメリカ大陸やカリブ海地域の砂糖やコーヒー、タバコなどのプランテーションに動員し搾取を行ったことは、「人道に対する罪」であったとして謝罪した。

対アフリカ外交の重要性の高まり

文化財返還の動きが広がった背景には、ここまで見てきたアフリカとヨーロッパの間の不平等な関係や過去の植民地支配への倫理的な問いかけだけでなく、欧米各国による実利的な外交戦略もある。

アフリカは最後のフロンティアとして、経済や安全保障上の利益を追及して各国が影響力の拡大を競う場になってきた。特に近年は、ヨーロッパの旧宗主国やアメリカが、存在感を強める中国やロシアに対抗する構図が続いている(*3)

例えばフランスは、西アフリカのマリブルキナファソで相次ぐクーデターに象徴されるように、反仏感情の高まりを前に影響力を失いつつある。マリの政情安定や、サヘル地域におけるイスラム過激派勢力の拡大防止を目的として2013年から行ってきたバルカン作戦は2022年11月に終了し、8月にはマリからフランス軍が撤退した。また、12月には中央アフリカ共和国に駐留していたフランス軍も撤退している(*4)

なぜフランスはマリから撤退したのか?西アフリカの今後とロシアの影
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直近では、ブルキナファソで今年1月20日にフランスの大使やフランス軍の退去を求めるデモが起きた。デモ隊の1人は「テロリストは何年も前から我々を攻撃しているのに、世界で最も強い軍隊の1つであるはずのフランス軍は、我々を助けてくれない」と不満をぶちまけていた。数千人の死者と200万人以上の国内避難民を出したイスラム過激派勢力によるテロと治安悪化を食い止められなかったフランスへの反発は根強い(*5)

直前の1月10日にフランスの国際パートナーシップ開発担当相が首都ワガドゥグを訪れ、「フランスは何も押し付けることはない」と懐柔を試みていた。そうした努力も実らず、1月25日、二国間の防衛協定の破棄によりブルキナファソに駐留するフランス軍特殊部隊400人の撤退が決定した。

(*3)アフリカの側からは、アフリカを先進国の利益に従属させたり、東西の対立においてどちらにつくか選ばせようとする態度に反発する声が多く聞かれる。こうした態度はアフリカ各国が外交戦略を自立的に策定し実行する意思や能力を否定しており、植民地支配や冷戦時代から続くアフリカの主体性を無視した見方として捉えられる。例えば、2022年のAU議長国を務めていたセネガルのマッキー・サル大統領(Macky Sall)は、アメリカ・アフリカサミットを前に、「我々が話すとき我々は聞かれていないか、十分な興味を示されていない」「これが我々が変えたいことだ。そして誰にも『ダメだ、誰々とは仕事をするな』と言わせず、ただ我々と仕事をしてもらう。我々は誰とでも共に働き、取引をしたいと思っている」と述べた。また、西アフリカのトーゴの外相で政治哲学者でもあるロベール・デュッセ氏(Robert Dussey)は、「大国はアフリカを、自分たちの目的のために利用するだけの存在に減じようとしている」とした上で、多極化した世界においてアフリカはもはや1つの勢力のみに動かされず、「植民地時代の歴史に縛られることなく、新しいパートナーとの協働に意欲的だ」と述べた
(*4)これでサヘル地域からフランス軍が完全に撤退するわけではなく、ニジェールやチャドなどに3千人程度が依然として展開されている
(*5)BBCが解説するように、フランスへの反発は対テロ軍事作戦に対してだけではない。フランサフリック(Françafrique)と呼ばれる旧植民地諸国の指導者との従属的な繋がりを通じてフランスが自身の権益を確保している、また、アフリカの西部8ヵ国と中部6ヵ国で使われているCFAフランは、ユーロとの交換比率を固定することで為替政策の独立性を損ない、経済発展を遅らせている植民地時代の遺物だ、といった批判がある。

存在感を高めるロシア・中国

これらの国でフランスに代わって影響力を強めているのがロシアだ

ブルキナファソで2022年9月末に発生したクーデターや今年1月20日のデモでは、新しく実権を握ったイブラヒム・トラオレ大尉を支持する民衆が、ロシア国旗を振ってロシアとの軍事協力を求めた。2015年以降、ロシアはアフリカへの最大の武器輸出国となっている。

また、ロシアのプーチン大統領に近い実業家、エフゲニー・プリゴジン氏が経営している民間軍事会社、ワグナー・グループがマリや中央アフリカ共和国などで対テロ作戦に投入されている。ワグナーは活動先で略奪や民間人の殺害を行っており、過激派組織の抑え込みに効果をあげていないとされる。さらに、軍事支援と引き換えに、ワグナーやロシアの影響下にある企業が鉱物資源への権益を得ており、こうして得られた金などが、ウクライナへの侵攻後、経済制裁に苦しむロシアを支えていると指摘されている。

これらの旧フランス植民地のアフリカの国々では「親ロシア」の世論を作り上げるためのプロパガンダ展開されている。その中では、ワグナーがアフリカのインフルエンサーと協力して、フランスのアフリカ政策への批判やロシアのウクライナ侵攻への支持をSNSで拡散している。今年1月中旬には、ゾンビや蛇のように描かれたフランス軍を倒そうとするマリやブルキナファソの兵士をワグナーの傭兵が助け、さらにコートジボワールへと向かおうとするアニメーション動画が拡散した。

ロシアの影響力の増大は、ロシアによるウクライナ侵攻を巡るアフリカ各国の対応にも表れている。国連総会では、侵攻の非難決議ロシアの人権理事会理事国資格停止決議ウクライナ東部四州併合を非難する決議で、アフリカの多くの国が反対や棄権に回った。

どのような国が、なぜロシアを支持しているのか?
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国連で全加盟国の3割近くを占めるアフリカ諸国を自らの勢力圏に囲い込もうとする動きは、続いている。2022年7月から8月には、ロシアアメリカフランスの首脳や外相が相次いでアフリカ各国を歴訪、ウクライナ侵攻を巡るそれぞれの立場への同調を求め、またアフリカ側が窮状を訴えてきた食糧問題への支援も打ち出した。中国の新たに就任した秦剛外相も今年1月、新年の恒例となっているアフリカ訪問を行った

若者が多く人口拡大が続くアフリカの巨大市場への進出も各国は競い合う。

中国はアフリカ全土で、道路や鉄道、空港、港湾施設などのインフラ整備を進めてきた。1990年代には欧米諸国が建設契約の85%以上を担っており、当時中国のシェアは微々たるものだった。しかし中国はここ10年ほどで急激に存在感を高め、シェアは2013年の12%から2020年には31%にまで増えトップに立っている。また、中国はアフリカにとって最大の貿易相手国でもある

対してアメリカは、2022年12月にアフリカの49ヵ国の首脳をワシントンに集めてアメリカ・アフリカサミットを開催し、今後3年間で550億ドルの資金拠出を行うことを表明した。あからさまに「中国に対抗するのが目的」とは言明しないものの、トランプ政権時代に停滞したアフリカへの関与を取り戻そうとするもので、交通輸送インフラの整備や貿易、気候変動、食糧、安全保障など様々な分野における協力を強める。中国と同様、アフリカ連合(AU)のG20加盟への支持も表明した。

勢力圏争いの一環としての文化財返還

文化財の返還も、こうしたアフリカにおける勢力圏争いの一環という側面がある。

Le Mondeは、文化財の返還について、芸術への愛や賠償への関心よりもむしろ地政学的な意味合いが強いとしている。2016年にセネガルのダカールで完成し2018年にオープンした黒人文明博物館は中国が3,000万ユーロの支援で建設し、2019年にDRCのキンシャサで完成した国立博物館は韓国が2,100万ドルで建設している。中国はダカール港へのアクセスを、韓国はDRCの鉱物資源をそれぞれ狙っているとされる。

ヨーロッパの旧宗主国も影響力を保持するためアフリカ各地で博物館建設への支援を進める。

ドイツが返還したベニン・ブロンズが展示される予定のエド西アフリカ美術博物館は、2026年に予定されているオープンに向けて、ドイツが400万ユーロを支援している。イギリスの大英博物館もナイジェリア当局とともに、博物館周辺やベニン市内の発掘を行う400万ドル規模の考古学プロジェクトを行うことになっている。

フランスは、ベナン政府がダホメ王国の文化財や、奴隷貿易の歴史、ブードゥー教、現代美術のそれぞれに関する4つの博物館を国内各地に建設し、観光振興や経済開発に繋げる計画を支援している。中でもフランスが返還した26点の王国美術品が展示される予定のダホメ王国に関する博物館には2,500万ユーロを拠出し、また学芸員の育成も支援する。

ベルギーは、2022年6月にフィリップ国王がDRCを訪れ、レオポルド2世による残虐な支配やルムンバ首相の暗殺などについて遺憾の意を表明した際、スク人が儀式で用いる1.6メートル大の仮面を無期限で貸し出した。

レアメタルや銅などの鉱物資源を持つDRCで最大の経済パートナーとなっている中国の前に、ベルギーの存在感は薄まっている。ベルギー政府で文化財の返還に携わるトマ・デルミン氏は「ベルギーは、文化面だけでなく、次の10年に向けて経済や開発など、さまざまな計画を立ち上げようと野心を抱いています」と述べている

返還に向けた今後の課題は?

文化財の返還が動き出した2017年のマクロン氏の発言から5年以上が経ったが、欧米諸国にある文化財の総数から見れば、返還は遅々として進んでいないと言える。

本記事の冒頭で取り上げた以外にも返還の要求は2017年以降相次いでいる。例えばフランス・パリのケ・ブランリ博物館に対しては、2019年にエチオピアが3,000点以上、チャドが約1万点の文化財を返還するよう要求した他、マダガスカルも2020年に7,781点の返還を要求している。

今後、返還をさらに進めていくにあたってはどのような課題があるのだろうか?

そもそも返還の方法をどのようにするべきかや、返還先の体制整備といった実務的な課題もある一方で、そもそも現在のアフリカの文化財に関する議論が植民地主義のメンタリティから脱していないという指摘もある。順番に見ていこう。

返還の方法をどのようにするべきか?

まず、文化財を全て一括で返還するべきか、それとも一つ一つ、来歴が判明したものから個別に返還するべきか、という議論だ。

後者の場合、個々の文化財が誰から誰にどのような経緯で渡り、どのように博物館が取得するに至ったのか調べなければならないため多くの時間がかかり、またそもそもそれを裏付ける資料が残っていない場合がある。また、資料が残っていたとしても、それは植民地支配当時の行政官による記録など、支配する立場の視点しか反映されていない可能性が高い。

また、文化財によっては、当時、美術品市場での需要の高まりを背景として、アフリカ人自身の意思としてヨーロッパ人への販売や譲渡を目的に製造していたものもある。ベニン・ブロンズのような軍による攻撃の際に持ち去られたものを除けば、何が「略奪」にあたり、どれを返還するべきなのかは一概には判断できない

返還か流通か?

さらに、アフリカ側への文化財の引き渡しを、完全な「返還」とするのか、それともあくまで将来的に欧米側に戻ってくることを前提とした「流通」とするのかも議論の的だ。

欧米の博物館の中には、アフリカの博物館に一時的な「貸し出し」を行うだけに留めようとするところもある。背景には、完全な返還を行ってしまえば、欧米の博物館の展示品が一気に減少してしまうのではという懸念がある。

例えば、ケ・ブランリ美術館にあるサブサハラ・アフリカに関するコレクション72,000点のうち、サール・サヴォワ報告書で示された返還対象の基準に該当するのは45,000点にも上る

また、アフリカの文化財の返還が進むことで、他の地域からの文化財についても返還の要求が高まるのではないかという疑念もある。例えば、大英博物館に展示されているエルギン・マーブルは、19世紀始めに古代ギリシャのパルテノン神殿から持ち去られたものであり、長年返還が求められてきた。現在、イギリス政府とギリシャ政府の間で返還に向けた交渉が続いているが、合意に向けた道のりはまだ険しいとされる。

こうした返還要求の高まりについて、そのきっかけとなったマクロン氏の2017年の発言は、長い間閉ざされてきた「パンドラの箱」を開けてしまったのではないかというもある。サール・サヴォワ報告書を作成したサヴォワ氏は、これを認めた上で、むしろ「空っぽの博物館というものと、折り合いをつけることが大切なんだと思います。少し空いたスペースで考えてもいいでしょう」と述べている

誰に返還するのか?

返還にあたっては、「誰に返還するのか」も簡単に決められることではない。これまでの返還は多くが国同士の取り決めで行われているが、その文化財を作ったとされるコミュニティが議論から排除される可能性がある。そもそも、植民地化の際にヨーロッパ列強側の論理で恣意的に引かれた国境線を独立後も受け継いだアフリカ各国と、民族や文化のコミュニティの広がりは必ずしも一致しない

ドイツによるベニン・ブロンズの返還にあたっては、ドイツ政府との交渉を重ねてきたナイジェリア政府と、イギリスによって滅ぼされたベニン王国の王・オバの末裔であるエワレ2世(*6)、それぞれが受け取る権利を主張した。

さらに、ベニン王国の現在の位置にあたるエド州の知事が先手を取る形でエド西アフリカ美術博物館の建設に向けた団体を創設し、そこへベニン・ブロンズを所蔵することにした。自身の王宮内の博物館での所蔵を目指していたエワレ2世はこれに強く反発した。最終的にはエド州知事が創設した団体に参加することで合意したものの、ナイジェリア側の当事者が合意に達する前に大規模な返還を決定したドイツ政府の瑕疵を指摘する声ある

また、アフリカ内のアフリカ人だけでなく、アフリカ外のアフリカン・ディアスポラの文化財との繋がりにも目を向ける必要があるだろう。

アメリカに渡ったアフリカ人奴隷の子孫である弁護士、ディアドリア・ファーマー=ペールマン氏によれば、ベニン・ブロンズは奴隷の代価として払われた銅でできた腕輪を溶かして作られたものだという。そしてベニン・ブロンズを通じてアフリカとの繋がりを維持するため、ベニン・ブロンズをナイジェリアに返還せず、奴隷の子孫がいる各国で展示し続けてほしいとしている

(*6)ナイジェリアやアフリカにおける王(伝統的首長(traditional chiefs)などと呼ばれる)については、エドやベニンではないものの、イボ人の非集権制社会を事例に研究した松本(2008)に詳しい。

法整備のハードル

一部の国は国有財産の譲渡を禁じる法律を理由に返還を拒否してきた。

大英博物館は、ベニン・ブロンズを900点以上所有しているとされているが、1963年の大英博物館そのものに関する法律や、1983年の国有財産に関する法律を理由に返還に応じていない

フランスはベナンやセネガルへの返還にあたっては、国有財産の譲渡を禁じる法律に対する例外となる特例法を制定して対応した。つまり、返還を決める度に法律を制定しなければならず、返還プロセスの遅れに繋がることが懸念される。

対してベルギーは、2022年6月に文化財の返還のあり方について定めた包括的な法律を可決した。これにより返還の要請があれば、国を問わず、来歴調査のための合同チームを作り、特例法制定などのステップを経ることなく返還するものを決められるようになった

アフリカ側の体制整備

アフリカ諸国の独立直後から繰り返されてきた文化財の返還要請を退けるため、アフリカ側には十分な所蔵体制をもつ博物館が存在しないという主張は、独立直後からごく最近まで繰り返されてきた

1973年の国連総会演説でザイール(*7)のモブツ大統領は、子どもたちに自分たちの国の歴史を伝える重要性を説いて文化財の返還を求めた。これを受けて文化財の返還を求める国連総会決議3187が採択され、ベルギーから200点弱の美術品が返還された。しかし、その多くが中古品市場に出回ったため返還は中断され、以降返還は行われなくなった

また、1977年にナイジェリア・ラゴスで開催された、"FESTAC ‘77"と呼ばれる第二回世界黒人アフリカ芸術文化祭の公式エンブレムには、「クイーン・イディア」と呼ばれるベニン王国で16世紀に作られた象牙の仮面が使用された。ナイジェリア政府は仮面そのものも文化祭で展示できるよう、大英博物館に貸し出しを求めた。

しかし大英博物館はナイジェリア側が文化祭後に仮面を返還するか信用できないとし、さらに、「仮面は極めて脆く、振動や揺れから保護しなければならない……ナイジェリア人はそれを自分の所有物だと思い、大切に扱わないだろう」という見下した理由で貸し出しを拒否した(*8)。ナイジェリアには1950年代に文化財を売却したことがあり、西側諸国の間では当たり前のように文化財の流通が行われていたのにも関わらず、だ。

このような、アフリカの博物館や文化財を扱う体制を不十分であると一方的に見なし、それを返還拒否の理由として恣意的に用いる主張は、前述のようにヨーロッパ諸国自身も関わって先進的な展示設備を備えた博物館建設をアフリカ各地で進めていることを考えればもはや通用しないだろう。

ただし新たな博物館の運営にあたってはそのコストをどのように負担するのかという問題はある。ナイジェリアのエド州に建設予定のエド西アフリカ美術博物館については、今後さらにドイツから移送予定のベニン・ブロンズの輸送費や保険費用を誰が拠出するのか決まっていない。またブロンズの所蔵にあたっても、空調管理のための電気代などがかなりの費用になることが予想されるという。

(*7)1965年にクーデターでDRCの大統領に就任したモブツは1971年に国名をザイール共和国に変更した。首都の名前は「レオポルドヴィル」から「キンシャサ」に、自身の名前まで「モブツ・セセ・ココ」に改名するなど、民族主義的な「ザイール化」政策を進め、西側諸国からの援助資金を不正蓄財するなど、国家を私物化した独裁体制を構築した。
(*8)その上、イギリス政府は仮面のレプリカを作成し仮面の代わりとして寄贈することを提案した。文化祭を取り仕切り、また70年代始めからヨーロッパ各国政府や博物館への返還要請を率いていたナイジェリア政府担当者で考古学者のエクポ・エヨ(Ekpo Eyo)は、これを侮辱と受け取り拒否した。

デジタルを活用した透明性向上の試み

また、博物館の整備だけでなく、サール・サヴォワ報告書で勧告されていたように、文化財をデジタル化しインターネット上で公開する試みも進行している。報告書の言うように、返還の請求を行うにはまず、どのような文化財がどこにあるのか知るための透明性の向上が欠かせないからだ。

ドイツ政府が中心となって運営されている「コンタクト・ポイント」は、ドイツ国内の博物館に所蔵されているベニン・ブロンズの画像と、材質や大きさ、取得年月、調査によって判明した来歴などがリストとなって公開されている。来歴の調査は今後も行われ、どのような経緯で各博物館が所蔵するに至ったのか情報を追加していく方針だ。

また、Open Restitution Africaというプロジェクトは、アフリカの文化財返還に関わる政策や、返還プロジェクトの実施例などの情報を一か所に集めインターネット上で公開している。返還に携わる関係者にデータやより深い知見に基づいた意思決定を可能にするのが目的だ。また特に、ヨーロッパで行われがちな返還に関する議論の透明性を高め、アフリカ側の関係者がアクセスできるようにすることで、返還のあり方にアフリカの声をより反映することを目指している。

植民地主義からの脱却

ここまで、2017年のマクロン氏の発言以降の文化財返還の動きや、それにまつわる議論を紹介してきたが、その多くは欧米諸国の政府や博物館、研究者を中心に展開されてきた。アフリカの文化財に関する議論なのにも関わらずアフリカの声が無視され続けるのは、植民地主義の継続に過ぎないという指摘は根強い。

Africa No Filterのアカデミックフェローであるモレモ・モイロア氏(Molemo Moiloa)が、Open Restitution Africaとともに発表したレポートは、アフリカの遺産にまつわる知識生産における不均衡を明らかにしている(*9)

レポートによれば、2016年以降、アフリカの遺産(文化財だけでなく恐竜の化石など自然遺産も含む)に関する学術文献は300%増加し、またTwitterなど公共空間における発言は600%増加した。しかしアフリカ人による発言の増加はそれぞれよくてもこれらの半分程度だった。また2020年に、アフリカ人以外がアフリカの遺産の返還に関して引用されたり、インタビューを受けたり、また自ら記事や論文を書いた頻度は、アフリカ人に比べて17倍も高かった

実際に返還を行う際にも、その実務の多くを担うのは、欧米の博物館において来歴調査を行っている研究員や学芸員たちだ。そしてアフリカの政府やコミュニティ、博物館は文化財を略奪された側なのにも関わらず返還を頼み込む立場で、略奪した側がどれを返還するか決めている

そうして西洋中心主義をベースに定義された「アフリカの文化遺産」には、儀式で使う仮面などは有形のものは含まれたとしても、その略奪に伴って同時に消失した豊富な歌や踊り、口上といった、無形の芸術文化は言及されない

(*9)Open Restitution Africaは、これまでにアフリカ人の研究者やジャーナリストなどが文化財の返還について発言したメディア記事や執筆した論文などのリストを公開している。

半世紀前にも行われていた議論

アフリカの文化財に関する議論をヨーロッパの白人社会が支配するという構図は、植民地時代の「文明化の使命」によってだけでなく、アフリカ諸国の独立が相次いだ1960年代以降にも継続して強化されてきた

サール・サヴォワ報告書を執筆したサヴォワ氏の著書によれば、現在の文化財返還にまつわる議論は、1960年代から80年代始めにかけて行われたものを繰り返しているに過ぎない

アフリカ諸国が新たな独立国家としてアイデンティティを形成しようとするのとともに、アフリカの政治家や文化人、博物館から文化財返還の要求が相次いだ。そしてそれは1970年代中頃には国連など国際社会の場でも繰り返されるようになり、前述のモブツ大統領の演説や国連総会決議に至る。1978年には、セネガル人のUNESCO(国際連合教育科学文化機関)事務局長、アマドゥ・マハタール・ムボウ(Amadou-Mahtar M’Bow)が、略奪された文化財はただの物ではなく文化や民族の歴史や記憶を物語るものだとして、返還を求めた

しかし、ヨーロッパ各国の政府や博物館関係者は様々な植民地主義的なレトリックを用いて要求を退けた。例えば、「(そもそも略奪される前はずっとアフリカにあったのにも関わらず)アフリカの文化財はアフリカの劣悪な環境よりもヨーロッパの博物館のほうが安全だ」とか「アフリカの人々は自身の文明の遺産を正しく解釈することができない」、あるいは「西洋の専門家こそがアフリカの文化財の解釈を行うのに適任であり、こうしてアフリカの『本物の』伝統を守っている」といった考えだ。

アフリカ人を排除して語られるアフリカ

そもそも文化財に限らず、アフリカに関する知識生産は植民地時代から続く不平等な構造の上に行われてきた

コンゴ人の哲学者で現在デューク大学名誉教授のヴァレンティン・ムディンベ氏(Valentin Mudimbe)は、1988年の著書『アフリカの発明(The Invention of Africa)』の中で、アフリカのイメージは、「アフリカ」そのものを描写するのではなく、常にヨーロッパ人を中心に置いた視点で描かれてきたとした。アフリカは、「現代的で文明的で工業化された」ヨーロッパを定義し引き立てるための、「伝統的で原始的で農耕的な」他者として語られてきた。

アフリカに関する知識生産がアフリカ人以外により支配されている状況は、数字の上でも表れている。1993年から2013年にかけて、英語圏でのアフリカ学術誌のうち主要な2誌(African AffairsとJournal of Modern African Studies)に掲載された論文の著者のうち、アフリカに拠点を置く著者の割合は1990年代には25%のみで、さらに2013年までに15%まで減少した

こうした状況を踏まえて、アフリカに関する知識生産を、グローバル・ノース(欧米を中心とした高所得国)ではなく、アフリカにおいて行い、アフリカ研究を「脱植民地化(Decolonise)」するべきだという意見もある。

より平等な関係性を構築するために

ここまで、アフリカの文化財にまつわる議論を、その歴史的経緯やアフリカとヨーロッパ双方の視点から論じてきた。一貫して注目すべき点は、この議論は、ヨーロッパ列強がアフリカを分割した時点から1世紀以上に渡って不平等な構造の上で展開されてきたということだ。

そしてその構造はアフリカ各国の独立を経ても温存されてきた。2017年から注目を集めることとなった返還の議論は、すでに半世紀前に行われ、当時抑圧された主張を再び見直しているに過ぎない

現在検討されている返還に立ちはだかる障害にも過去の植民地化の影響が継続してある。また返還を巡る動きの背後には、植民地支配への道徳的・倫理的な責任だけでなく、外交的・経済的利益を志向する戦略的な動きがあることも明らかだ。これらの様々な思惑による動きが、将来の文化財を巡るグローバルな関係をも規定し続けるだろう。

だからこそ今後、アフリカを主体とした文化財返還の試みがどれくらい行われるかが焦点だ。サール・サヴォワ報告書は、フランスだけでなくアフリカ各国の学者や博物館の学芸員などが共同で文化財の来歴調査を行い、文化財のリストを作成し、それをもとに返還の要請や協議を行うことを求めていた。また、ガーナなどアフリカ各国の博物館が、デジタル技術を用いて世界各国に分散している自国の文化財の情報収集や来歴調査を独自に行い、リストを作成している例もある。

アイデンティティの回復

文化財返還の問題は、ただ物を返すというだけに留まらず、ある知識体系や文化的背景から無理やりに切り離された文化財が元のコミュニティに戻ることで、そのアイデンティティの回復に関わるものだ。

カメルーン人の歴史家で、南アフリカのウィットウォーターズランド大学教授のアシル・ムベンベ氏(Achille Mbembe)は、文化財の返還について以下のように述べている

我々がヨーロッパとの関わりの結果失ったものは価値のつけられないほど大切なものです。……それはあまりにも巨大すぎて、ヨーロッパが返そうと思っても返せないものです。……しかしヨーロッパは(略奪の際に)何が起こったか、真実を語らなければなりません。……ヨーロッパが我々に返すことのできるものがあるとすれば真実であり、その真実とは、我々はヨーロッパとの関わりにおいてあまりに多くのことを失ったということです。それは、文化財そのものであり、それが何を意味していたのか、何のことを伝えているのか、どのように作られたのか、どのような経済社会においてだったのか、どのような知識体系だったのか、どのようにこの色を作ったり、例えば森林といった生態環境において耐久性を持つものをどのように作ったのかといった科学的な知識などです。こうした知識が全て失われてしまったのです。この知識をどうやって返そうと言うのでしょうか?

その上でムベンベ氏は、文化財の返還とは、アフリカとヨーロッパの関係性を修復することであり、関係性の修復は真実を尊重することであるとした。つまり、文化財の略奪によって文化財そのものだけでなくそれにまつわる知識体系や生活様式、文明が著しく損なわれたという事実と、それによる苦しみを共有することだという。

文化財の返還は、アフリカの将来を担う若者にとっても重要な意義を持つ。

サール・サヴォワ報告書は「人口の60%が20歳以下の大陸」において、若者がその手元から余りにも遠くに置かれた自文化の遺産に触れることができず、その豊かさどころか、存在さえ知らないことに懸念を示している。サール氏は文化財の返還はエリートだけの議論ではなく、あらゆる人々の歴史や財産、遺産に関わるものだと言う

アフリカが、人口の拡大や経済的な発展を続けるだけでなく、力によって奪われた豊かな文化も取り戻せるか、そしてそれが平等な関係性に基づいているか、注意して見ていく必要がある。

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✍🏻 著者
エディンバラ大学修士課程
エディンバラ大学(スコットランド)アフリカと国際開発修士課程所属。専門はフランス語圏アフリカのガバナンス。その他多文化共生、災害時の多言語情報発信などが関心領域。
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