⏩ 被害と加害は簡単に切り分けられず、交差する側面も
⏩ 捕虜虐待・殺人、民間人虐殺、人肉食、生体実験、猛獣処分など
⏩ 戦後に裁判や慰霊、謝罪がなされる一方、依然として軋轢も
2024年8月15日、終戦から79年を迎えた(*1)。
各種報道においては、空襲や原爆、特攻兵、疎開者などの実情を記録し、伝えるためのインタビューやドキュメンタリーが制作されている。
一方で、日本軍がおこなった加害に関する報道は相対的に少ない。たとえば、1942年2月19日、日本軍はオーストラリア北部・ダーウィンを空爆し、軍民合わせて252名が死亡したとされている(日本はオーストラリア本土を爆撃した唯一の国)。後述するように、そうした加害について整理することにも一定の意味があるだろう。
ダーウィンで日本軍の空襲を受け、煙があがる石油タンク(1942年)(Australian War Memorial, Public domain)
日本は、戦争でどのような加害をおこなったのだろうか。
(*1)本記事では、一般的に認識されている8月15日を終戦日として扱い、同日を終戦日として扱うべきかという論争は取り扱わない。国際法上は、1945年9月2日に東京湾上のミズーリ号で交わされた降伏文書調印をもって、終戦とされている。そのため、アメリカやフランスなどは9月2日を対日戦勝記念日としており(中国は9月3日)、8月15日を終戦日とするのは「内向きの論理」だとする批判がある。
被害と加害の二重性
前提として、戦争における加害と被害を明確に切り分けることは簡単ではない。
一橋大学の吉田裕名誉教授が整理しているように、終戦間際の時期における日本軍の兵士たちは、補給路が断たれた中で、マラリア、結核、虫歯、精神疾患、餓死などで多くが命を落とした。これらを考慮すれば、日本軍の兵士たちも、被害者としての側面を持っていると言えるかもしれない。
また、歴史家・外交官のハーバート・ノーマンは次のように述べて、日本軍の兵士が加害者と被害者の二重性を抱えた存在であることを示唆している(太字は引用者による、以下同様)。
この侵略行動(引用者註:ノーマンは直前で、軍国主義者らが市場と植民地を求めてアジア大陸に押し渡ったとしている)において、一般日本人は、自身徴兵軍隊に召集された不自由な主体でありながら、みずから意識せずして、他の諸国民に奴隷の足かせを打ちつける代行人となった。他人を奴隷化するために真に自由な人間を使用することは不可能である。反対に、最も残忍で無恥な奴隷は他人の自由の最も無慈悲かつ有力な強奪者となる
とはいえ、上官の命令に従うしかなかったという弁明は、戦後の裁判で多くの軍関係者たちが主張したことだった。その意味で、ノーマンの指摘をどこまで真剣に受け止めるかは議論があるだろう。
加害と被害の交差
さらに、日本の加害性と、自分たちが被害を受けたという戦争体験が交差するケースもある。
1970年代に活動していた東京空襲を記録する会は、空襲による民間人被害の実態を明らかにする目的で体験談の収集などを始めた。彼らはその過程で、東京大空襲を戦略爆撃の歴史の中に位置付けるようになったという。すなわち、スペインのゲルニカ爆撃(1937年)に端を発し、日本が中国・重慶におこなった爆撃(1938年から1941年の重慶爆撃)から広島・長崎に至る歴史の中に、東京大空襲を位置付けた(*2)。
富士山の脇を飛行するB-29(1945年)東京侵入の第1目標は富士山だった(U.S. Air Force, Public domain)
これは、日本が(軍事施設ではなく)市民を標的とする戦略爆撃の ”発展” を助長していたという認識を形成した。自らの被害実態を明らかにする目的で始めた試みは、日本の加害性の認識に至っており、ここに加害と被害の交差性を見て取ることができる。
以上を踏まえると、戦争における加害と被害を明確に切り分けることは、一筋縄で結論づけられる問題ではないし、両者が交差しているケースもある。加えて、後の世代が前の世代の加害責任をどう果たすかという問題も論争的だ(*3)。
しかし、戦時中に日本軍がおこなった加害について理解することが無意味なわけではない。むしろ、前述してきたような議論をするためにも、当該行為について整理する必要があるだろう。
(*2)戦略爆撃の歴史については、伊香俊哉「戦略爆撃から原爆へ——拡大する『軍事目標主義』の虚妄」『岩波講座アジア・太平洋戦争5』(岩波書店、2006年)に詳しい。
(*3)こうした議論は、瀧川裕英「戦後世代の戦争責任」(『東京大学法科大学院ローレビュー』2023年12月号)、日本の戦後責任論については、家永三郎『戦争責任』(岩波書店、1985年)、赤澤史朗「戦後日本の戦争責任論の動向」(『立命館法学』274号、2000年)、永原陽子「『戦後日本』の『戦後責任』論を考える」(『歴史学研究』2014年8月号)などに詳しい。
何をしたのか?
戦時中に日本軍がおこなった加害について網羅的に整理することは、史料の不足や事例の多さなどが原因で難しい。
前述した吉田名誉教授によれば、敗戦前後の時期に、日本政府や軍が閣議決定をおこなったうえで、大量の公文書を焼却した。事実、終戦末期の内閣で大蔵大臣を務めていた広瀬豊作は、次のように回想している。
内閣の中でやることも、ほとんど新聞に発表しないことが多く、記録に残らず、実行して闇から闇に葬られることも相当あったと思う。私もご承知のとおり終戦直後、資料は焼いてしまえという方針に従って焼きました。これはわれわれが閣議で決めたことですから、われわれの共同責任のわけです(大蔵省大臣官房調査企画課編『聞書戦時財政金融史』大蔵財務協会、1978年、140頁)
こうした制約などを踏まえ、本記事では、1941年12月8日の真珠湾攻撃後に時期を絞り、大きく5つの視点から整理をおこなう(*4)。そのうえで、日本による具体的な加害としては、
- 捕虜に対する虐待・殺害
- 民間人殺害
- 生体実験
- 慰安婦
- 猛獣虐殺
があげられる。
(*4)生体実験については、それ以前のケースも含む。なお、以下の事例は、半藤一利・保阪正康・泰郁彦・井上亮『「BC 級戦犯」を読む』(日本経済新聞出版社、2010年)などに詳しい。