⏩ 「新世界」の「発見者」として知られる
⏩ コロンブスが批判される5つの理由とは?
⏩ 当時から繰り返されてきた顕彰と非難の歴史
2024年6月13日、人気ロックバンド・Mrs.Green Apple が、前日に発表した新曲「コロンブス」のミュージックビデオ(MV)の公開を中止し、公式サイトで謝罪した。
MV は、メンバーの3名がそれぞれ、コロンブス、ナポレオン、ベートーベンに扮した格好で類人猿に文明を伝えるような内容であり、コカ・コーラのキャンペーンソングとして公開されたものだった。
ボーカルの大森元貴氏は、「類人猿が登場することに関しては、差別的な表現に見えてしまう恐れがあるという懸念を当初から感じて」いたが、「類人猿を人に見立てたなどの意図は全く無く、ただただ年代の異なる生命がホームパーティーをするというイメージをしておりました」として、以下のように謝罪している。
意図とは異なる伝わり方もするかもしれないと思い、スタッフと確認し合い、事前に特殊メイクのニュアンス、衣装、演じ方のフォロー、監修をしていたつもりではおりましたが、そもそもの大きな題材として不快な思いをされた方に深くお詫び申し上げます。
また、所属レコード会社・ユニバーサルミュージックも13日に声明を発表し、「歴史や文化的な背景への理解に欠ける表現が含まれていたため、公開を停止することといたしました」と述べた。
コロンブスの評価をめぐっては、「新世界」を「発見」した偉人として知られてきたが、近年は特に、奴隷制や植民地主義との関係性から、批判的に言及されている。一体なぜ、コロンブスは批判されているのだろうか?
コロンブスとは誰か?
クリストファー・コロンブス(1451年- 1506年5月20日)は、1492年に「新世界」を「発見」したことで最も知られる「探検家」だ(*1)。イタリアのジェノヴァ出身とされており、大西洋から西回りで航海してアジアにたどり着くことを目指していた。
1480年代にはポルトガル王室に航海のための資金援助を断られていたが、1492年8月、スペイン王室の支援を受けて、インドや東洋の金および香辛料を獲得する航路を見つけるため、大西洋を横断するべく航海を開始した。
1492年12月6日、コロンブスがイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国がある島)に上陸した様子を描いた版画(Theodor de Bry / Library of Congress, Public domain)
そして同年10月12日、陸地を「発見」した一行はその地に上陸する。後述するように、これはアメリカ大陸ではなく、カリブ海のサンサル・バドル島だったが、同日をもって「新世界の発見」とされることがある。
コロンブスの死後、その「偉業」が忘却されていた時期もあったが、19世紀にかけて「アメリカ合衆国」の独立神話が強化されていく中で再評価され、その上陸と「発見」が神聖視されていった。代表的な表象が、1958年まで米国議会議事堂に設置されていた「アメリカの発見」像だ。
「アメリカの発見」像(Frances Benjamin Johnson, Public domain)
1844年に設置された像には、地球儀を高く掲げるコロンブスと怯える様子の先住民の少女が表現されており、コロンブスは「その気質と業績がもたらす道徳的・知的偉大さ」(The United States Magazine and Democratic Review,1838)が強調されている。その10年後に描かれた柔和な表情で海を見つめる様子で描かれたコロンブスと比較して、「アメリカの発見」像では、先住民に対する白人の優位性や、先住民からの畏敬や恐怖が示されていることが分かる。
Inspiración de Cristóbal Colón
(*1)コロンブスの「発見」より500年ほど前に、ノルマン人のレイフ・エリクソンが北米に到達していたと考えられており、コロンブスは「最初の発見者」ではないとされている。
BLM による評価の転換
コロンブスの「業績」を批判的に見る向きは、以前から存在した。
コロンブスが「新世界」に到着して以降、ヨーロッパとアメリカ大陸の間では多くのヒトや物資の交流が盛んになったが、そのことを米国の歴史家アルフレッド・クロスビーは、「The Columbian Exchange(コロンブスの交換)」と呼んだ。しかし国立民族学博物館の山本紀夫名誉教授は、
ヨーロッパ人の行為は「交換」などというなまやさしいものではなく、「侵略」ということばこそがふさわしいものであった。ヨーロッパ人の目から見れば「発見」であり「征服」の偉業であったかもしれないが、それは先住民の側からすれば虐殺であったり、疫病の導入によって人口の大幅な減少を招いたものだった
と指摘している。
実際、「発見」から500年が経過した1992年のコロンブス500周年記念日では、南米各国で抗議活動がおこなわれた。グアテマラの人権活動家リゴベルタ・メンチュは、同年にノーベル平和賞を受賞しているが、これはコロンブス500周年にあわせたものだった。
また米国サウスダコタ州で約300人の先住民(ラコタ族)が虐殺されたウンデット・ニーの虐殺から100年が経過した1990年には、同州のジョージ・ミケルソン知事とネイティブ・アメリカンのティム・ジャゴが合意し、同州のコロンブス記念日が「ネイティブ・アメリカン・デー」に変更されている。
にもかかわらず、こうした認識が近年になって大きく広まったのは、2020年のジョージ・フロイド殺害に端を発する Black Lives Matter(BLM)だった。BLM では黒人への暴力や構造的差別が問題視され、全米各地で抗議運動などが起こったが、その余波として、南北戦争(1861-1865年)時代に、奴隷制度を支持した歴史的人物の像などが破壊される事態に至った。
たとえば米ヴァージニア州シャーロッツヴィルにある、奴隷制度を擁護した南軍司令官だったロバート・E・リー将軍像は、2017年にも白人至上主義者とその抗議者との衝突を生み出したが、BLM を経て2021年に撤去された。他にも米・初代大統領のジョージ・ワシントンや第26代大統領のセオドア・ルーズベルト像なども問題視され、コロンブス像もそこに含まれた。
抗議運動がピークを迎えた2020年6月には米ミネソタ州の州都セントポールで、コロンブス像が引き倒された他、ボストンやバージニア州リッチモンドなどでも同様の動きが続いた。
もちろん像の破壊には、賛否両論がある。たとえばコロンブス像の撤去に直面したミネソタ歴史協会のケイト・ビーンは、「ミネソタ歴史協会は、いかなる種類の像や記念碑の破壊も決して支持しない」と述べつつ、「私たちは、保全と保存に全力を注いでいる。私たちが理解すべきことは、これらの記念碑が、先住民やアフリカ系アメリカ人が平等に扱われていなかった時代に作られたということだと考える」と言う。また「歴史を誤って記憶しないため、あるいは記憶する機会さえなくすために、どこまで歴史を消し去るべきなのだろうか?」と指摘する専門家もいる。
にもかかわらず、現在でもコロンブスを批判する声は強くなっている。
なぜ、コロンブスは批判されるのか?
コロンブスが批判される理由は、彼が航海中に出会った先住民たちにおこなったこと、そしてその負の遺産に由来する。具体的には大きく5つの方向性があり、(1)奴隷制度と暴力(2)強制改宗(3)疫病の伝播(4)奴隷貿易(5)環境・生態系への影響だ。
1. 奴隷制度と暴力
1つ目に、奴隷制度と暴力があげられる。コロンブスは「新世界」に到着したとき、自身の航海日誌に次のように書き残している。(太字は筆者、以下同様)
彼ら(引用者註:イスパニョーラ島のタイノ族)は、所有物すべてを喜んで交換しました。(略)彼らは武器を持っておらず、武器を知りもしません。なぜなら、私が彼らに剣を見せたのに、彼らは無知から刃をつかんで自らを切りつけたからです。彼らは、立派な召使になるでしょう。50人いれば、彼ら全員を従わせて、私たちの望むことを何でもさせることができます。
そして、複数の資料によって、コロンブスあるいは彼の一味が先住民に対しておこなった残虐行為が記録されている。先住民は、死を覚悟で金を集めるよう指示され、トウモロコシを盗んだ男は鼻と耳を切り落とされ、足かせをはめられて奴隷として競売にかけられた。先住民たちの反乱を抑止するため、切り刻まれた死体を見せ物にしたともされる。
さらに、タイノ族(*2)に対する性的虐待・人身売買の記録も残っている。アメリカの歴史家であるローレンス・バーグリーンは、コロンブスの探検隊に参加したミケーレ・デ・クネオの言葉を引用する。
ボートに乗っていたとき、私はとても美しい女性を捕まえました。彼女は提督 [コロンブス] が私に与えてくれました。彼女を自分のキャビンに連れて行ったとき、彼らの習慣通り、彼女は裸でした。私は彼女と快楽を味わいたいという欲望に満たされ、自分の欲望を満たそうとしました。彼女は嫌がり、爪で私を攻撃したので、私は何もしなければよかったと思いました。それから私はロープを取り、彼女を激しく鞭打ちました。すると彼女は、信じられないほどの叫び声をあげました。最終的に私たちは、彼女が売春婦の学校で育てられたと思うほどの合意に達しました。
コロンブス自身も、人身売買を認める記述を残していた。1500年、スペイン女王の友人であるドナ・フアナ・デ・ラ・トーレに宛てた手紙の中で、コロンブスは「少女を探し回る売人がたくさんいる。今や9歳から10歳の少女の需要が高い」と書いている。
コロンブスは、数百人の装甲兵と騎兵隊、訓練された軍用犬(犬種はウルフハウンドやマスティフなど)からなる軍団を組織して先住民の虐殺を指揮したが、こうした戦略はその後のヨーロッパ人たちのモデルにされた。
(*2)タイノ族は17世紀に絶滅したと考えられてきたが、2018年の研究によれば、1,000年前のルカヤン族(タイノ人の一派)の女性の DNA と、現在のプエルトリコ人の DNA が密接に関係している。また、バーベキュー、ハンモック、カヌー、タバコ、ハリケーンなどの言葉は、すべてタイノ語に由来しているという意味では、言葉に関しては全く絶滅していない。
2. 強制改宗
2つ目は、強制改宗だ。具体的には、スペインの国教であったキリスト教(カトリック)を先住民たちに強制した。
コロンブスは、最初に到着した島に十字架と旗を立て、そこをサン・サルバドル(聖なる救世主)と名付けた。先住民がグアナハニ島と呼んでいたこの島は現在、バハマに属しているが、名前はサン・サルバドルのままだ(*3)。
そうした動きは、コロンブスに特有のものというよりはむしろ、当時のヨーロッパ君主たちに見られたものだ。1493年にローマ・カトリック教皇アレクサンデル6世が出した勅書では、カトリック教徒が「発見」した土地はすべて彼らの所有物となり、利用することができるという、「発見の教義」(doctrine of discover)が擁護されている。
こうした「発見の教義」や、コロンブスとカトリックの結びつきは、後述するようなアメリカにおけるコロンブスの顕彰にも深く関わっている。
(*3)一時期、ワトリング島とも呼ばれていたが、1920年代からサン・サルバドル島と呼ばれている。
3. 疫病の伝播
3つ目は、疫病の伝播だ。前述した歴史家アルフレッド・クロスビーは、「(先住民たちの苦しみの)決定的な要因は、人間でも植物でも動物でもなく、細菌だった」と指摘している。
特定の病気がいつどこで発生したかは定かでないが、コロンブスの到着以降に「新世界」へ持ち込まれた、あるいは悪化したとされる病気は30種類にのぼる。たとえば、天然痘や麻疹(はしか)、インフルエンザ、ジフテリア、チフス、コレラ、マラリア、デング熱などだ(*4)。
これらの病気が「新世界」に与えた影響は壊滅的だった。1492年に約25万から30万人いたとされるイスパニョーラ島の先住民たちは、感染症により1517年までに23万6,000人が死亡したと考えられている。
病気は、人間のみならず、馬、牛、豚、羊、山羊、鶏などの家畜によっても媒介された。そして、家畜は病気を媒介するのみならず、生態系や植生パターンにも影響を与えた。具体的には、在来種の捕食による生態系バランスの崩壊、放牧地の拡大と過放牧による土壌の劣化や森林伐採などが生じたという(*5)。
いずれにしても、病気による先住民の大幅な人口減少は、アメリカ大陸におけるサトウキビ生産などに必要な労働力需要を刺激し、奴隷貿易へと結びついていく。
(*4)この中には、梅毒が含まれることもある。ただ、一部の専門家は、コロンブスが到着する前から、すでに世界中で梅毒は広がっていたと考えており、複雑な議論がある。
(*5)先住民にとって、新しい動物性タンパク質や荷役動物として位置付けられた側面もある。
4. 奴隷貿易
4つ目は、奴隷貿易だ。1506年に死去したコロンブスは、17世紀から18世紀に本格化した奴隷貿易の直接的な生みの親ではない。しかし「コロンブスの交換」が、後の大規模な奴隷貿易や奴隷制プランテーションを生み出したことは間違いない。
エリック・ウィリアムズの名著『資本主義と奴隷制』で主張されたように、英国の産業革命は奴隷制度と密接に関わっていた、と考えられている。
15世紀から19世期、ヨーロッパの各港から繊維や武器などを積んだ船が、西アフリカに向かった。そこで奴隷と商品が交換され(①)、その奴隷はカリブ海域に位置する西インド諸島やアメリカ大陸などに向かって、ヨーロッパで高い需要を誇った砂糖やコーヒー、綿花などの植民地物産と交換され(②)、最後に再び、ヨーロッパ本国に植民地物産が届けられた(③)。この三角貿易のモデルが、大西洋奴隷貿易を形成していた。
大西洋三角貿易(Sémhur, CC BY-SA 3.0)
マックス・ウェーバーは、プロテスタントの教義が近代的合理主義と勤勉性を生み出し、それが産業革命につながったと考えた。しかしウィリアムズは、大西洋奴隷貿易によって英国に蓄積された莫大な利益が、新たな投資や国内市場の拡大をもたらし産業革命につながった、と主張した。言い換えれば、ヨーロッパの近代化は黒人奴隷の血と汗によって生み出されたものであり、その歴史は奴隷貿易の歴史そのものであった。
これまでのグローバルな研究成果によって、大西洋奴隷貿易で1,000万人以上もの黒人奴隷が「供給」されたと考えられている(*6)。これらは生き残って「輸出先」にたどり着けた者だけであり、その数倍の黒人奴隷が亡くなったとされる。
奴隷貿易制度が大規模に続いた理由として、前述した先住民の大幅な人口減少とサトウキビ生産などに必要な労働力への需要が挙げられる。ヨーロッパでコーヒーや茶が普及すると、その苦みを薄めるために砂糖の需要が急増し、結果として、大規模な労働力が必要となり続けたのだ。また先住民は「新世界」に持ち込まれた病気に弱かったため、アフリカから奴隷を「輸入」する必要性が高まったという背景もあった。
こうして生まれた奴隷制プランテーション(単一作物のための大規模農園)は、1863年に第16代大統領エイブラハム・リンカーンによって奴隷解放宣言がなされるまで、米国の一般的な光景となった。
(*6)日本語で読める包括的な研究として、布留川正博『奴隷船の世界史』(岩波書店、2019年)がある。
5. 環境・生態系への影響
文化や先住民だけでなく、「コロンブスの交換」は環境や生態系にも影響を及ぼした。新たに持ち込まれた馬や豚、牛などはアメリカ大陸にすぐさま適応し、大規模に野生化したと考えられている。またミツバチやミミズが持ち込まれたことは、それまでの北アメリカ大陸の生態系を大きく変化させたと考えられている。
また植物についても、多くの外来種が在来種を駆逐したと考えられている。「コロンブスの交換」概念を生み出したクロスビーは、そうした変化を「生態学的帝国主義」と呼んだ。環境や生態系の変化は、全てを否定的に見ることは出来ないが、肯定的要素だけではなかったことは間違いない。
また物を移動させたり運ぶ手段としての馬の優位性は、先住民が農場を手放し、馬を手に入れるため、時には先住民同士が争う動機を与えた。たとえば1872年のレッド川北支流の戦いや、ナバホ族とホピ族の争いも、その背景に家畜や土地所有をめぐる問題があった。
コロンブスへの対応
以上のような批判を抱えつつ、これまでコロンブスは、顕彰と非難の両方を受けてきた。