⏩ オカルト雑誌から登場し、大衆誌やワイドショーにまで露出拡大
⏩ 問題ある教団として扱われつつ、滑稽な集団とされた側面も
⏩ 知識人からの「お墨付き」やファッション誌でのイメージアップ戦略
3月20日、1995年にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件から30年を迎えた。
世界でも稀な平時の大都市における無差別化学テロである同事件の経過や、オウム真理教については、各種メディアにて特集が組まれたり、ドキュメンタリードラマが放送されてきた。その中では、教団の実態やトップだった麻原彰晃(本名は松本智津夫、2018年に東京拘置所にて死刑)の人物像なども詳細に紹介される。
オウム真理教は、地下鉄サリン事件とその後明らかになった、化学兵器を使用した殺人をはじめとする数々の凶悪事件により、現在ではテロをおこなったカルト教団として扱われ、麻原も世間を震撼させたテロリストと認知されている(麻原は殺人など13の事件で有罪判決を受けた)。
しかしながら、彼らがメディアに露出し始めた1980年代から地下鉄サリン事件が起こるまで、その扱いは一様ではなかった。問題のある教団として報道されつつも、滑稽な人物として “お笑いのネタ” とされたり、知識人から “お墨付き” を与えられ(たとアピールし)、宗教ブームという流行の一翼としても扱われ、ファッション誌でも取り上げられていた。
オウム真理教は、宗教団体としては珍しく、積極的にメディア、特にテレビと関わっていた点が特徴的だった。
彼らが大衆に強い印象を与えたのは、ワイドショーだった。オウム真理教は、”ワイドショー的” な取り扱いに沿うように振る舞っていた側面もあり、たとえば、以下のような描写は、教団がワイドショーを意識していたことを示唆している(太字は引用者による、以下同様)。
一九九〇年一〇月に熊本県警の強制捜査が始まってから連日のように朝八時半、午後三時に始まるワイドショーにあわせて記者会見を行ない、生中継で放送させた。(略)早川紀代秀総務部長と満生均史渉外部長の二人は、強制捜査当日から姿をくらまし、指名手配となってから一週間後に熊本地検に出頭した。オウム側は逮捕の前日、フジテレビのなかでも極立ってオウム真理教に好意的なレポーターに、二人を独占インタビューさせ、当日朝のワイドショーに放送させた。続いて逮捕当日の午後三時、麻原はワイドショーの時間に合わせて地検に電話を入れ、「これから出頭させます」と予告。番組のスタートと同時にその電話の呼び出し音が入るように計算する演出ぶり。あらかじめ各テレビ局に連絡済み。地検前のカメラの放列のなかを二人の被疑者が到着したところを、熊本県警が逮捕した。出頭したにもかかわらず、逮捕される際もかなり抵抗し、早川総務部長など大袈裟に顔をしかめて「イタイ、イタイ」と大騒ぎ。つき添ってきた女性幹部が「マスコミの皆さん、警察の暴力です」とヒステリックにわめく。このような騒動をテレビに生中継させた(江川紹子『救世主の野望』1991年、197-198頁)
オウム真理教や麻原は、メディアでどのように扱われていたのだろうか。
地下鉄サリン事件前、オウム真理教はどう扱われていたのか?
地下鉄サリン事件以前における、メディアでのオウム真理教の扱いは、大きく以下の10点に分類される。
- オカルト・超能力を操る奇特な人物(1980年代中頃)
- 問題のある教団(1989年10月〜)
- ワイドショー(1989年10月〜)
- 坂本弁護士一家殺害事件への関与を疑われる(1989年11月〜)
- 知識人・文化人から “お墨付き” を与えられた(とアピール)(1989年12月〜)
- 選挙に出馬(1990年2月)
- 可視化された問題の中で続いたテレビ出演(1990年〜1991年)
- 宗教ブームという若者の流行の代表例(1992年頃)
- ビジネス主体(1993年頃)
- 「毒ガス」との関連を疑われる(1994年秋)
1. 超能力を操る奇特な人物(1980年代中頃)
オウム真理教は、1980年代にオカルト系雑誌からメディアに登場し始めた。
最初に麻原が注目されたのは1985年10月、オカルト系雑誌『Twilight zone』(トワイライトゾーン)にて、「独立独行のヨガ修行者<麻原彰晃> シャクティが吹き上げ身体はそのまま空中に浮揚」と題する記事が掲載された。記事中では、麻原が「空中に浮揚」したとする写真(実際は蓮華座を組み飛び跳ねている瞬間を撮影したもの)もあわせて示されている。