2020年8月28日、持病の潰瘍性大腸炎の悪化を受けて、安倍晋三首相が辞任を発表した。歴代最長となった安倍政権は、果たしてどのように評価されるべきだろうか?
一般的に、長期政権は国民から安定した支持を受けていたことから、高い評価を受けるはずである。しかし辞任発表後の識者による指摘は、必ずしもそうではない。
「国家を食い物」など痛烈な批判
例えば、朝日新聞の原真人編集委員は、アベノミクスについて「国民の未来を食い物にした罪」があるとして、「この政権が長期政権を維持するために、国家の未来や国民の将来財産を食い物にしてきた」と指摘する。
また、京都精華大学の白井聡専任講師は「日本史上の汚点である」とした上で、「悪事の積み重ね、その隠蔽、嘘に次ぐ嘘といった事柄が、公正と正義を破壊し、官僚組織はもちろんのこと、社会全体を蝕んできた」と述べる。
こうした批判は、安倍政権がいかに愚かであったかを主張するのみで、なぜ国民が安倍政権を支持したのか?という分析をおこなっていない。「やってる感」連発で政権を延命することが出来た(原)ならば、それを許容した国民が非合理的であったことになるし、社会全体を蝕んできた(白井)ならば、なぜ論者である白井専任講師のみが政権に蝕まれていないのかという疑問が生まれる。
すなわち、これらの説明は、安倍政権がなぜ長期政権を確立できたのかという疑問に応えず、「国民が愚かだから」や「安倍政権が国民を騙したから」というイデオロギー的な非難のみに終始した、非科学的な解釈だと言える。
世論調査は評価
一方で、世論調査では安倍政権を評価する声もある。辞任表明後にいち早く公開された日本経済新聞社とテレビ東京による調査では、安倍首相の実績について「評価する」と「どちらかといえば評価する」と答えた人は合計74%に達し、実績を「評価しない」と「どちらかといえば評価しない」の合計24%を大きく上回った。
また、安倍内閣の支持率についても55%となり、7月の前回調査から12ポイントの上昇を見ており、この世論調査からは、国民が概ね安倍政権を評価していると受け取ることができる。
ただし8月におこなわれた読売新聞の世論調査では、不支持が54%と支持率の37%を大きく上回っており、時事通信が同8月におこなった世論調査でも、支持率は32.7%、不支持率は48.2%となっていることから、今後の調査によって国民の評価が変動する可能性もある。
いずれしても安倍政権の評価については、現時点の世論調査だけではどのような政策が評価され、あるいは批判されてきたのかは見えづらい。ひとくちに政権の評価と言っても、すべての政策が諸手を挙げて評価を受けることはなく、ある分野で功績を上げても、ある分野では実績を挙げられず批判を受けることが殆どである。
すなわち、安倍政権をどのように評価するべきか?という問いに応えるためには、より詳細な政策や個別のイシューについて検討していく必要があるだろう。 そこで、主要な政策分野に対する専門家などの評価を見ていこう。
経済政策
Bloombergのコラムニストであるノア・スミス氏は、安倍首相が「なんとか日本経済を復活させることができた」として、その経済政策を評価する。具体的には、物価目標の2%には達しなかったものの、異次元の金融緩和政策によって、デフレの脱局と消費・企業投資の刺激に成功したと指摘。アベノミクスの第三の矢である構造改革についても、強固な政治的反対があったにもかかわらず、企業の利益は急増し、税収が押し上げられたと評価する。
またFinancial Times紙は、「インフレを年間2%まで押し上げるという目標を達成できなかった」ものの「経済成長と雇用はともに改善した」と総括する。
こうした評価は、世論調査の結果と整合的である。前述した日経新聞などの調査では、次の首相にも継続してほしい政策として、「経済政策」の38%が「新型コロナ対策」に続いた。「いざなぎ景気」超えの景気回復が、本当にアベノミクスの成果によるものなのか、もしそうであるならば効果のあった政策は何なのか、などの疑問は残るが、少なくとも有権者は安倍政権の経済政策を一定度まで評価していると言える。
一方で、アベノミクスが不十分であると評価する声も多い。例えば、The Wall Street Journal紙は、第二次世界大戦後で最も長い経済成長を遂げて、失業率は四半世紀の中で最低水準となり、主要な株価指数は倍増したと述べる一方、「アベノミクスを完遂することができなかった」とする。安倍首相の辞任が発表された時点で、日本における企業への規制は強く、米国やドイツの生産性レベルを下回り、日本の国際競争力は後退している。また日銀の強固な政策でもインフレは達成できず、「国家が衰退する根本的な原因を打ち破ることができなかった」という専門家の発言が引かれている。
Financial Times紙の異なる記事は、アベノミクスが誤った政策もおこなってきた一方で、市場に配慮した改革は、投資家などから支持を得たという見方を示している。同紙は、2度に渡る消費税引き上げによって、国外投資家らはアベノミクスへの信仰を失ったと手厳しく指摘するが、スチュワードシップやガバナンス・コードの導入、不透明な経営に対する株主の異議申し立てなどは、「市場に配慮した数多くの改革」であるとして、投資家から評価を得られたと結論づける。
Bloombergは、アベノミクスが途中までは成功を収めていたものの、「明らかな勝利は、道半ばで終了した」と述べる。金融緩和の影響も年を経るごとに弱まり、消費税を引き上げても財政赤字は改善せず、生産性向上などの構造改革に失敗したと述べている。そして、日本の内需は政府支出に大きく依存しており、アベノミクス以前と同様、インフレの持続的な加速を生み出すことができる経済の堅調な拡大は困難な見通しだという。
こうした論考を見る限り、安倍政権の経済政策への評価は、金融緩和や長期的な経済成長などに一定の評価が下されつつも、構造改革の不十分さや消費税増税の問題など批判すべき課題の両面が指摘されている。
雇用
経済の中でも、雇用は重要な領域だ。安倍政権の功績として言及されることも多い就業者の増加だが、第二次安倍政権が始まった2012年の平均就業者数である6270万人から、2020年6月分の就業者数については、コロナ禍による減少がありながらも6670万人まで拡大している。
一方で、この実績についても非正規雇用など不安定な労働形態を生み出しているという批判がある。
早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問の野口悠紀雄氏は、アベノミクスについて「生産性を向上させることなく、非正規の低賃金労働に依存して 企業利益を増やし、株価 を上げた。負の遺産として、低生産性が放置され、労働市場が不安定化した」と指摘する。
女性や非正規雇用者が不安定な雇用の弊害を受けているという指摘は、Bloombergの片沼麻里加氏らもおこなっており、以下のように指摘する。
コロナショックで急激に経済が悪化する中、女性就業者数は4月に前年比で約8年ぶりの減少に転じ、雇用の調整弁となりがちな非正規雇用者の過半を占める女性の立場の弱さが浮き彫りになった。
東京大社会科学研究所の玄田有史教授が述べるように、「安倍政権下での雇用政策では『生産性上昇』に資するものかが問われることが増えたのも特徴である。労働市場の効率性改善の契機とみなすか、さまざま理由で生産性を上げられない(最優先できない)企業や人々の切り捨てとみなすかは、雇用政策の役割や意義として議論の分かれるところ」だ。
認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやいの理事長の大西連理事長は、安倍政権の貧困・格差分野の政策について「経済成長により貧困や格差を解消していこう、ということをメッセージとして出す総理であったと思う。たしかに、経済成長し、無職よりも非正規でも仕事があったほうがいいだろう。しかし、まだ多くの人は自分の将来の生活に不安を感じ、社会には閉塞感がある。自己責任論も根強い。」と述べる。
一連の指摘を見る限り、安倍政権下において、雇用は成長したもののセーフティーネットの問題は十分に扱われたとは言い難い。不安定な雇用や生活保護などの問題は、経済成長を目指す上での調整弁、あるいはやむを得ない副作用として位置づけられた。これが安倍首相の個人的なイデオロギーに起因するものなのか、世界的な潮流なのか、はたまた日本の自己責任論によるものなのかは不明だが、見逃すことができない論点であることは間違いない。
外交
安倍首相は、2013年から「地球儀を俯瞰する外交」を掲げてきた。その結果、主要国だけでなく8年間で80の国と地域、のべ176の国と地域を訪問した。
ジョン・ニルソン=ライト氏は、安倍政権の外交政策について「典型的なプラグマティスト(実践主義者、実用主義者)」であり、「米国など既存の同盟関係を強化しつつも、相手のイデオロギーを問わず、地域や世界のアクター(行為主体)と新しいパートナーシップを構築した」と評価する。
ライト氏は、以下のような各国との個別具体的な協定・パートナーシップが安倍外交の成果だと指摘している。
インドやオーストラリアとの新たな戦略的パートナーシップや東南アジア諸国との防衛協定、イギリスやフランスとの野心的な二国間の外交・防衛パートナーシップ、さらには太平洋とインド洋にまたがる様々な国との経済や安全保障政策の調和を目的とした、新たなインド太平洋構想の明確化
一方、数多くの地域に目を向けた外交について、西田恒夫元国連大使は「個別の外交ばかりが目立ち、戦略的な動きができなかった。看板だけで実態がよく見えなかったと言わざるを得ない」と評する。長期政権のメリットを活かして、多くの国と関係を結んだが、それらがわかりやすい成果につながらなかった側面も指摘されている。
各国との関係は、どうだろうか。
日米関係
安倍政権下において、日米関係が安定したことは多くの論者が認めている。 民主党政権下における普天間基地移設問題などでこじれた日米関係を再構築したことからはじまり、安倍総理の退任を受けてトランプ大統領は「日米関係はかつてないほど良好になった」と評価するまでになった。
スタンフォード大学フーバー研究所のマイケルオースリン研究員は、安倍首相について「ワシントンとの協力が、日本の安定と繁栄にとって不可欠であり続けることを理解」していたため、外交政策の中核に、米国との同盟関係を置いたと指摘する。その結果として、米国は「10年近く、日本について懸念を持つ必要がなかった」という。
Washington Post紙のコラムニストであるデビッド・イグナティウスも、同様の指摘をする。安倍首相は「不安定な大統領であるドナルド・トランプをマネージメントすることに世界で最も成功したリーダーだった」とした上で、「安倍政権下の日本は、米国が望んでいた通りに、安定した同盟国であった」という。
トランプ政権に対する安倍首相の対応を「おだて外交」と称する声もあるが、各国がトランプ政権との予期せぬ貿易摩擦や駐在米軍の軍事費をめぐる費用負担に揉めている中、日本は比較的円滑な関係を維持することができたと言える。
日中・日韓関係
中国や韓国との関係については、安倍首相のタカ派としてのキャラクターから悪化の一途をたどったイメージがあるしれない。しかし意外なことに、安倍政権は日中関係を改善に向かわせていた。
2019年、首脳会談で習近平国家主席が「この1年、中日関係が持続的に改善し、発展している」と評価をおこない、2020年には10年ぶりの訪日も予定されていた。尖閣をめぐる緊張関係や、安倍首相の靖国神社訪問、そして歴史認識の問題がある中でも、日中関係は好転していた。 2018年に米中の貿易対立が加速する中ですら、「競争から協調へ」というキャッチフレーズを掲げながら、安倍首相は「日本と中国は隣国であり、パートナーだ。お互いを脅かすことはない」と強調した。
習近平国家主席も、日中は「新たな歴史的な方向性」にむかって二国間関係を構築すべきで、「広範で多元的な共通の利益・関心を共有している」と応えた。ブルッキングス研究所の招聘シニアフェローであるジョナサン・ポラック氏は首脳会談を「相互に配慮した静かな1年の頂点」だったと述べている。
しかしこの努力は、新型コロナウイルスと香港やウイグルの人権問題をめぐる国際的な非難、そして新たな米中対立によって水泡に帰そうとしている。トランプ大統領との緊張が高まる中で、中国が日本を調停者として見なす時期もあったが、いまや日本はジレンマに陥っている。外部環境の変化によって、安倍政権の対中政策は、いまや暗礁に乗り上げつつあると言えるだろう。
日韓関係もまた、第二次安倍政権の前半までは決して暗いものではなかった。2015年には慰安婦問題日韓合意が締結、2016年には日韓秘密軍事情報保護協定も結ばれ、両国の関係は改善に向かっていく。外交問題評議会のシニアフェローであるスコット・スナイダー氏は、両国の状況を「イデオロギーおよび政治的懸念よりも、現実的な配慮が優勢になっている」と分析した。
しかし、2018年に日本海において韓国海軍の駆逐艦が、海上自衛隊のP-1哨戒機に対して火器管制レーダーを照射したことや、徴用工訴訟をめぐる問題が激化したことで、再び日韓関係は悪化した。
日韓関係は、2019年末にムン・ジェイン大統領が日本について「われわれの最も近い隣国」と呼び、翌月に安倍首相が韓国について「基本的価値観と戦略的利益を共有する最も重要な隣国」と呼んだことで、関係改善に向かう可能性を見せた。しかし、安倍首相の辞任によって少なくともこの問題も停滞している。
安倍政権の東アジア外交は、首相個人のナショナリストとしてのイメージとは異なり、2016年前後に比較的成功を収めた。しかし外部環境の変化や両国内の事情なども加わり、現在では振り出しに戻りつつある。
ロシア・北方領土問題、北朝鮮・拉致問題
安倍首相自身も認める通り、ロシアとの北方領土問題と北朝鮮との拉致問題については、成果を上げることができなかった。辞任会見の中では、「拉致問題をこの手で解決できなかったことは痛恨の極みであります。ロシアとの平和条約、また、憲法改正、志半ばで職を去ることは断腸の思いであります。」と述べている。
北方領土問題については、プーチン大統領と会談を重ねることで進展を図ろうとしたが、思惑通りには進まなかった。2018年には北方領土問題の解決後に平和条約を締結するという日本政府の立場に対して、先に平和条約を結ぶようプーチン大統領から提案があった。これに対して安倍首相は、これまでの四島一括返還の原則から2島を先に返還する方針に舵を切って交渉打開を狙った。
しかし2019年には「日本に引き渡す計画はないと強調」して、G20の首脳会談を前にして安倍首相を牽制した。その後もロシアは強硬姿勢を崩しておらず、択捉・国後両島では軍事拠点などが増強されている。
同じく北朝鮮の拉致問題についても、小泉政権下で被害者が帰国して以降は、目立った進展がない。「安倍首相は首相就任以降、すべての被害者の帰国に全力を尽くすと強調し続けてきたが、解決のめどは立って」おらず、被害者家族は「怒りと戸惑い」を明らかにしている。
これらの政策は、明確に失敗と位置づけられるだろう。
安全保障
安全保障は、安倍政権において毀誉褒貶の激しい分野だ。安全保障関連法の成立は「戦後政策の大転換」と言われ、集団的自衛権の行使が容認されたことから、安倍首相は激しい批判にさらされた。2015年8月30日に国会前で開催されたデモには、警察発表によれば国会前だけで約3万3000人が参加した。
たとえば朝日新聞は、自社の世論調査で反対が54%に達していることから、「国民の多くが不信と不満を抱いている。 こうした民意をかえりみぬ採決は、してはならない」と述べた。また毎日新聞も、「国会軽視、選挙軽視、国民軽視の極みである。衆院選で勝てば、すべてが白紙委任され たと首相が考えているとしたらあまりにも独善的だ」と法案の審議から成立するまでの過程を厳しく批判している。
こうした点から、安全保障関連法の成立については当初2015年には、野党や国民から大きく反発を受けた印象が強いが、専門家の評価は必ずしもそうではない。
例えば拓殖大学の森本敏総長は、安全保障法制の整備によって「日米同盟をさらに強固にしたことが、安倍政権の実績のひとつだ」と評価する。
また、インディアナ大学ハミルトン・ルーガーグローバル・国際学大学院大学のアダム・リッフ准教授は、安倍首相が「野心的で物議を醸す改革を進めてきた」ものの、「それ以前からの長期的な変化の流れと整合的である」ことに加え、日本の「自制的な防衛態勢の中核的な柱は、依然として維持されている」と分析する。
この変化は、日本の戦略的な軌跡や東アジアの国際関係、日米同盟にとって重要な意味を持つとされて、安倍首相がそのイデオロギーに基づいて急速な転換をおこなったという見方に抑制的であると同時に、政策への一定の意義を見出している。
Washigton Post紙は、安倍首相のレガシーは「憲法上、自衛権が制限されている日本の軍隊が、国境を越えて活動することを認める法律を可決したことで、筋肉質な防衛体制が可能になったこと」だと述べているが、こうした変化を生んだ安倍首相の辞任が「アジアにおける米国の利益に打撃を与える可能性がある」と指摘する。
反対に、安倍首相による一連の政治的行動について「日本の軍事力行使に対する憲法的・政治的制約を大幅に緩和し、地域的・世界的な自衛隊派遣の新たな前例を作った」と評価するウォーリック大学のクリストファー・W・ヒューズ教授のような論者もいる。それでも、安倍首相の安全保障政策についての議論は、批判一辺倒ではないことに注意する必要があるだろう。
国民からの強い反発があった後、安全保障関連法についての見方は一貫していない。2016年に日本経済新聞などがおこなった世論調査によれば、安全保障関連法を「廃止すべきではない」は43%となり「廃止すべきだ」の35%を上回っている。2018年に朝日新聞がおこなった世論調査によれば、安保関連法について賛成が40%、反対が44%となっており、賛否が拮抗している。
2016年4月にTBSがおこなった調査でも、「廃止するべき」が34%となっており、「廃止するべきではない」の45%を下回っているが、これは前年9月に「安保関連法成立を評価する?」という質問に対して、「評価しない」が53%に達していたことを思えば、大きな変化である。
安全保障関連法が「戦争法案」と呼ばれていることとは対照的に、国民の支持は一貫しておらず、専門家の評価も未だ定まっていない。一連の政策が国内で短期的に大きな反発を受けたとしても、安倍首相による改革の動きは、戦後日本の長期的な傾向に整合的なものかもしれない。
憲法改正
政権にとって悲願であった憲法改正を成し遂げられなかったという意味では、この政策は失敗として数えられる。
しかし、そのことがむしろ成果だと述べるのは、千葉商科大学の田中信一郎准教授だ。同准教授によれば、安倍首相の成果は「憲法の基本原則を変更する改正が事実上、不可能と実証したこと」だという。「安倍首相ほど、基本原則を変更することに強い熱意を持ち、長い在職日数という時間を持ち、議席・与党・世論から安定的な支持を受けた首相」はおらず、野党の力も弱かったにもかかわらず、「憲法改正の手続きに入ることすら」出来なかった。
安倍首相がどれだけ憲法改正を望んでも、それは決して実現できないだろうという見通しは、多くの論者が指摘していた。例えば、ウィリアム・スポサト氏は様々な逆風にもかかわらず、安倍首相は「諦めることをしない」と指摘した上で、「本格的な軍隊をつくるのではなく、自衛隊の存在を認める新しい文言を入れることを望んでいる」とする。しかし「有権者は、6年半が経過した現在でも安倍首相に好意的だが、首相が自分のイメージを強化するために憲法を利用しようとすることには警戒心を持っている」と述べる。
安倍首相は、第一次政権に際して自身のイデオロギーを全面に押し出したことから批判を浴び、第二次政権ではアベノミクスを再優先課題に掲げた。その戦略は歴代最長の政権という成功を生み出したが、それであっても憲法改正は実現しなかった。時事通信が2020年5月に実施した世論調査では、憲法9条を「改正しない方がよい」と回答した人は69%に登り、安倍政権の支持者の間でも反対意見が強かった。
安倍政権にとっては憲法改正を実現しなかったことが、ある種「評価」される事態であったのかもしれない。
社会保障・少子高齢化
安倍政権下において、少子高齢化や社会保障の課題に対しては、「一億総活躍社会の実現」などのキャッチフレーズのもとで進められた。この中には、出生率の改善や働き方改革、名目GDP600兆円の実現などが掲げられているが、一連の政策に対する評価はポジティブなものではない。
例えば、立命館大学の筒井淳也教授は、以下のように指摘する。
第二次安倍政権にしても、働き方改革では一方で労働時間の上限規制を導入しておきながら、高度プロフェッショナル制度で経済界への配慮を見せ、「女性活躍推進」を掲げておきながら、配偶者控除制度の見直しは遅れている。政策パッケージの内容が混乱し、また中途半端であるために、個々の政策の効果が見えにくく、また矛盾した政策どうしがその効果を打ち消し合ってしまう。
同様の問題は、法政大学の小黒一正教授も指摘する。
新3本の矢で、例えば出生率を1.8に引き上げるとか、介護離職者をゼロにするとか、明確なターゲットを定めるということは非常に良いことだと思います。しかし、その後に出てきたいくつかの弾で、整合性が取れていないようなものが結構出てきているということです。
安倍政権の社会保障政策は、2019年に新たな契機を迎えた。それは、「全世代型」社会保障にむけた議論が本格的に開始したことだ。 これは75歳以上の後期高齢者の医療費負担などを一定所得以上の人について2割に引き上げることや、年金の受給開始年齢の選択肢について75歳まで拡大することが盛り込まれており、「医療や介護で給付と負担の見直し」が争点となっている。新型コロナウイルスの影響によって結論は先送りされたものの、日本の社会保障政策が大きく転換する契機と見られている。
安倍首相は、「子どもからお年寄りまで全ての世代が安心できる社会保障制度を大胆に構想する」と述べていたものの、少子高齢化が進む中で現状の社会保障制度が限界に来ていることは周知の事実となっており、実質的に国民の負担増につながる制度変更がどこまで実行可能かに注目が集まっていた。
ただし2019年末においても「社会保障制度の持続に向け、財政再建に道筋を付けることは喫緊の課題だが、改革のめどは立っていない」状況で、政策の行方は不透明だ。日本総研の翁百合理事長は、「今は全世代型社会保障や新型コロナウイルス後の社会像について議論のまっただ中だ。これらの問題が未完の状態で辞めることになったのは残念だ」と述べている。
多様な領域に広がる社会保障の課題だからこそ、複数の政策の整合性が重視される。しかし、安倍政権においてはキャッチフレーズが先行することで、その実効性や効果について疑念を向ける声も生まれた。Bloombergが指摘するように、「合計特殊出生率は、低下し続けているほか、新型コロナによって20年度の名目GDPは4.1%減の529.8兆円が見込まれており、安倍政権の目標達成は一層遠のいた」ことを考えると、総体としては十分な成果があげられなかったと言えるかもしれない。
女性・マイノリティ
保守派と見なされる安倍政権は、女性やマイノリティ、あるいは移民問題などにおいて後進的な立場をとっていると見なされる事が多い。
しかし前述したノア・スミス氏は、興味深い指摘をしている。それは、安倍政権が一般的に認識されているイデオロギーとは対照的に、その政策が「経済的・文化的の両面において進歩的でリベラル、ダイナミックでオープンな社会」を生み出していくであろうという予測だ。 安倍首相が保守主義者として知られていることを思えば、これは反直感的な主張ではあるが、スミス氏はジェンダー平等と移民の増加が、イデオロギーによる結果ではなく、経済政策の結果として生まれたことを指摘している。
前述のFinancial Times紙(8月30日)もまた、移民や女性に関する政策は、「安倍首相のナショナリストとしての政治的バックグラウンドを考えると、彼の社会改革にむけた開放性と国際主義的な外交政策は、驚くべきものだ」と指摘する。 実際、安倍政権は女性活躍を主要なアジェンダに掲げた。
これに対して朝日新聞は、安倍政権にとって女性は労働力であると述べた上で「経済成長の手段として女性を利用している」と批判し、「透けるきれいごと感」とみなす。
しかしそうであっても、2019年6月の労働力調査によれば、女性の就業者数は3003万人となり、1953年以降で初めて3000万人を突破している。
もちろんこれは、長年に渡る男女共同参画社会基本法などの法制度の整備や、女性のライフコースに変化が生じたこと、非正規雇用などを通じて多様な就業形態が可能になったことなど様々な要因があり、安倍政権のみの功績とは言えない。また前述したように、女性が雇用の調整弁としての役割を担わされているという批判もあるため、多義的な視点から問題を検討する必要があるだろう。しかし、安倍政権にとって女性活躍が重要な政策に位置づけられていたことは間違いない。
東京都立大学の堀江孝司教授が指摘するように、「第一次政権発足前には、『ジェンダーフリー』を攻撃するバックラッシュ運動に関与し、男女共同参画社会基本法を根本的に考え直す必要を語っていた安倍が、まさか女性の活躍とは」という声は根強く、そのパラドックスは以下のように説明されている。
安倍政権が掲げる女性の活躍促進はポーズなどではなく、政権は少子高齢化の波を乗り切る上で必要な労働供給を賄い、GDPを増大させるために、女性の就労を拡大することを実際に目指している。ただ、安倍自身はバックラッシュの過去を反省し、ジェンダー平等派に変わったわけではない。成長戦略としての「女性の活躍」政策は、ジェンダー平等政策とは異なる、ということには注意が必要である。
経済成長の手段としての女性活躍という問題設定や保守的なジェンダー観との両立に違和感は拭えないが、それでも労働市場への女性の参入という視点のみで見た場合、一定の実績を上げたと言える。
一方で、マイノリティ問題のように「生産性」に寄与しないと見なされる問題については、消極的だ。 例えば、G7で唯一、同性婚やパートナーシップ制度が法制度化されていない日本だが、安倍首相は2020年にも同性婚の是非について「わが国の家族の在り方の根幹にかかわる問題で、極めて慎重な検討を要する」と述べている。
また2019年に成立し、アイヌ民族を先住民族と初めて明記したアイヌ新法について、その後に麻生太郎副総理が「(日本は)一つの民族」と発言するなど、政権の差別的な意識が拭えていないという指摘がある。
移民
前述したように、安倍政権は保守派でありながらも、移民政策を進めてきた特異な存在である。なぜ政権の支持層がそれを許容したのかというパズルはあるものの、いずれにしても、安倍政権下において移民政策は急速に進展した。
政権発足時の2012年、外国人労働者はわずか68万人だったが、2019年時点で約166万人と急増した。特に2018年には「外国人労働者の受け入れを単純労働まで広げるため、歴史的な政策転換となる」制度変更が実施され、5年で最大34万人となる大規模の外国人労働者が受け入れられることが決定した。
これに対して安倍首相は「いわゆる移民政策をとることは考えていない」と述べ、深刻な人手不足を解消するための外国人労働力の受け入れであり、移民政策であることを頑なに否定しているが、実態は移民政策だと指摘される。
民主党の玉木雄一郎代表は、Financial Times紙のインタビューで「移民であることを前もって認めて、正しい移民政策に基づいて、欧州や米国で生じたような問題を回避するべきだ」と指摘している。
立憲民主党の長妻昭代表代行も、「どう生活してもらうのか。労働者としてどう権利を守るのか。社 会保障をどうするのか、住居をどうするのか、日本語教育をどうするのか」といった議論が十分ではないと批判している。特に技能実習生に関する不当な扱いが問題視される中での、受け入れ拡大について懸念の声が上がっている。
与野党の議論に対して、国民は2018年11月におこなわれた朝日新聞による世論調査では、外国人労働者の受け入れについて賛成が45%、反対の43%と拮抗しており、賛否が別れている状態だ。 労働力不足に、安倍首相の個人的なイデオロギーとは反するであろう移民によって応える姿勢は、女性活躍と重なる部分がある。
保守層に配慮して「移民政策ではない」と否定しつつも外国人労働者が急増する現状は、経済にとっては不可欠な政策ではあるものの、将来的に新たな問題を生み出す可能性がある。その意味で、未来の評価が重要になる分野だと言えるだろう。
難民
移民政策について語る場合は、難民問題についても触れる場合があるだろう。安倍首相は、2015年の国連総会の一般討論演説において、難民の受け入れについて「女性の活躍、高齢者の活躍が先」だと述べて消極的な姿勢を示した。
日本の難民政策に対する消極性は、安倍政権固有の問題ではないが、同政権下でも進展を見せることはなかった。国際人権NGOのアムネスティ・インターナショナルは、外国人の長期収容が移民や難民の人権を侵害していると述べているが、引き続き国際社会からはこうした日本の政策のあり方を批判されるだろう。
モリカケ、桜、検察官定年延長問題
では、政策以外の分野ではどうだろうか。政権の評価は、政策の実効性だけでなく不正や不透明な政治的決定、あるいは説明責任の欠如なども含めて検討されるが、安倍政権にとって最も大きな汚点は、森友・家計学園問題のいわゆるモリカケ問題や桜を見る会、検察官定年延長など政策以外の問題だ。
毎日新聞は、「安倍政権の体力を奪い続けてきたのは、森友学園・加計学園問題や、桜を見る会など『身内優遇』の姿勢が要因となった不祥事の数々だ」と指摘するが、「政権の私物化」については辞任会見においても質問が飛んだ。 実際「第2次安倍政権では、安倍晋三首相自らの関与が疑われて国会で追及が続いたものの完全に疑惑を晴らされず、うやむやになっているものもある」と指摘されるように、問題の風化を懸念する声もある。
2020年7月におこなわれた共同通信による世論調査でも、「政府は問題を再調査する必要がある」との回答は82.7%に達しており、「必要ない」の12.5%を大きく上回った。検察官定年延長問題についても、黒川氏の辞職について「懲戒免職にすべきだ」という指摘が、毎日新聞が5月におこなった世論調査で52%にのぼった。
政権後半の支持率低下に、モリカケ問題から始まる一連の不祥事をめぐる政権への不信感があることは否めず、これらは今後も検証すべき重大な問題だろう。
官僚主導から官邸主導
一連の問題の背景には、官邸主導の構造があると指摘する声がある。 例えば東洋大学の薬師寺克行教授は、「自民党政権は、大事な政策を決めるときに、霞が関の官僚組織や自民党の族議員らとの調整が不可欠となっている権力分散型のシステムが基本となっていた」が、安倍政権下においては「首相を取り巻く『官邸官僚』と呼ばれる側近グループが企画立案し、それを関係省に指示する」仕組みがあったことを指摘する。
しかしこの仕組みは、安倍政権固有のものではない。東京財団の加藤創太上席研究員は、「90年代以降の改革熱狂が志向した大きな方向性は、政冶・行政面での政冶主導および官邸主導の実現と、経済面での規制改革だった」と述べて、90年代以降の改革が「官僚主導」や「決められない政冶」から「官邸主導」への移行を促したとする。
「決められない政治」という言葉は、民主党政権下で特に注目を集め、安倍政権にとっては、その打破が重要な政治的メッセージとなった。それは民主党政権へのアンチテーゼとしてのみならず、大胆な経済政策を進める上でも有利に働いた。
Financial Times紙は、「首相官邸に権力を集中させることによって、安倍首相は慎重な日本の官僚国家に、抜本的な新たな経済政策を試すことを強いることに成功した」と官邸主導を評価している。
果たして官邸主導がモリカケ問題などの一連の不祥事を生み出したのか、あるいは安倍政権固有の問題なのか、官邸主導が内在する問題は「決められない政冶」を乗り越えるためにはやむを得ない事情なのか ― こうした問題は実証的な研究成果を待つ必要があるだろうが、長期政権の負の側面として重要な論点だろう。
東京五輪・コロナ対策
最後に、延期となった東京五輪とコロナ対策についてはどうだろうか。まず東京五輪については、朝日新聞が2013年におこなった世論調査において、賛成が74%と反対を大きく引き離しており、2018年のNHKの世論調査でも、開催都市になることが「よい」「まあよい」が合わせて8割を越えている。
こうした点から、まずは招致に成功したこと自体は安倍政権を含めた関係者の功績と言って良いだろう。「安倍政権の政治的な遺産(レガシー)となりうるのが東京五輪だった」という毎日新聞の指摘があるように、その招致プロセスの不透明性など問題はありながらも、政権にとっても五輪が開催されていれば、1つの実績がつくれたはずだった。
一方、安倍政権の新型コロナウイルス対策が十分であったのかという議論もある。こちらは現在進行系であるため結論を出すことは難しいが、少なくとも死者数が米欧に比べて少ないという評価ポイントはあるだろう。しかし日米欧6カ国の国際世論調査によれば、安倍晋三首相の評価は6カ国の中で最も低かった。
辞任後の日経新聞などの世論調査では、継続してほしい政策としてコロナ対策が挙げられていたため、現時点で国民が政府による政策をまったく支持していないとまでは言えないが、不満が払拭できていない現状はあるだろう。
誰が評価をするのか
以上、安倍政権の主要な政策分野について見てきたが、政権を評価することは、容易ではない。政策が長期に渡り、そして様々な因果関係によって成立しているものであるからこそ、その政策が効果があったのか?を実証することが難しいという問題もあるし、そもそも誰にとって「良いものか」という問題もある。
日本の政権であれば、当然「日本にとって良いこと」だと思うかもしれないが、例えば経済政策において、大企業や投資家にとって「良いこと」が、必ずしも社会的弱者にとって「良いこと」であるとは限らない。そういった意味で、安倍政権を評価することは、決して単純な話ではない。
とはいえ1つ重要なことは、国民が合理的な選択をしているという前提を置くことだろう。例えば、評価者自身がある政策に対して反対の立場であっても、国民がそれを評価していた場合は、国民の無知・無理解を責めるのではなく、なぜその政策が受容されているのかを考えることが、意義のある分析だと言える。もちろん、多数が支持する政策が「良い」とは限らないが、一定度の支持をする集団が存在し、彼らの立場や論理を明らかにすることには意味がある。
そのため、冒頭に紹介したような、安倍政権の愚鈍さを強調して、断罪するような評価にはあまり意味がない。各政策や論者によって議論の賛否が分かれるのは当然ではあるが、辞任直後の世論が一定度の評価を下しているのであれば、一体誰が何を評価しているのかを見極める必要がある。
安倍政権は評価できるのか?
上記の前提を踏まえた上で、果たして安倍政権は総体的に評価できるのだろうか。