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前回、ルッキズムの具体的な問題点を見てきた。ルッキズムは年齢や性別、セクシュアリティなどの要素が絡み合いながら、外見の良し悪しという評価基準によって、外見的に劣るとされる人物への差別や、教育や仕事に関わる不利益をもたらしている。
また外見的に優れている場合に得られる利益は多い一方、性的虐待など暴力を被るリスクもあり、利益を維持するためには容姿が衰えないことも要求される。しかし、こうした具体的事例があるにもかかわらず、ルッキズムの問題は十分に理解されているわけではない。
この点について、ルッキズムについての誤解と告発の難しさという2つの観点から見ていこう。
ルッキズムへの誤解
ルッキズムという概念は、カラリズムなどに比べて一定度まで人口に膾炙している。しかしそれが必ずしも正確に理解されているわけではない。
代表的な誤解が、いわゆるミスコン批判への応答だ。大学におけるミスコンには近年批判が集まっており、たとえば法政大学が、以下のような見解を示している。
「ミス/ミスターコンテスト」のように主観に基づいて人を順位付けする行為は、「多様な人格への敬意」と相反するものであり、容認できるものではありません。(略)「ミスコン」とは人格を切り離したところで、都合よく規定された「女性像」に基づき、女性の評価を行うものである。
これに対して、上智大学はミスコン批判への応答として「性別を問わず募集し、『女性』と『男性』の性差を強調しないよう、ウェディングドレスの着用なども取りやめるという。また、候補者が『容姿』だけで評価されることをできる限り避けるため、新たな審査基準を設けた」コンテストを開催した。
同コンテストでは、「インフルエンサーとしての、社会的な影響力をアピールする。候補者は自分で選んだSDGsのアジェンダに関わる活動を行い、その発信をSNSなどで行う」ことが評価される「SDGs部門」などが設けられており、これらは「Woke-washing」や「フェミニズムの商品化」のような新たな問題を露呈させている。
しかし根本的な問題は、同コンテンストが「ルッキズム=外見至上主義」を念頭に置いて、「容姿」以外を評価軸におけば、ミスコンに関する問題を解決できると考えている点だ。西倉実季は、この問題を以下のように指摘する。
単に「人を外見で判断すること」ではなく、ミスコンで評価される外見が性差別や年齢差別、障害差別と分かちがたく結びついていることであった。よって、従来よりも内面を重視するよう審査基準に変更を加えただけでは、ミスコンやそれに類するコンテストが孕む問題をすべて克服したことにはならない
その上で、日本の研究やメディアにおいてルッキズムは「外見だけで人を判断すること」と同義のように用いられてきたことも指摘する。逆に言えば、その理解だけでは、ルッキズムに関する議論が根本的に問題視する論点は十分に見えてこないということだ。
ルッキズムとは何か
ではルッキズムに関する議論は、何を問題視しているのだろうか?前述した西倉実季の論文によれば、その議論は大きく3つに整理される。
- 本来は無関係な場面で外見が評価されることを問題化している議論(イレレヴァント論)
- 美が社会的カテゴリーによって不均衡に配分されていることを問題化している議論(美の不均衡論)
- 労働市場で評価される外見が美的労働(aesthetic labour)を通じて組織的に構築されるなかで格差が生じることを問題化している議論(美的労働論)
この3つについて、簡単に見ていこう。