インターセクショナリティ(Intersectionality)という語を目にする機会が、日本でも増えつつある。
東京五輪の表彰台で、アメリカの陸上砲丸投げ銀メダリストのレイブン・ソーンダースが、両腕を交差させたことは記憶に新しい。 黒人で同性愛者であり、うつ症状との闘いについてもオープンにしているソーンダースの行動は、東京五輪初のデモ行動でもあり、大きな注目を集めた。
企業でも、インターセクショナリティに対する取り組みがなされつつある。パリ五輪のオフィシャルスポンサーでもあるLVMHは、女性のキャリア促進に向けた取組にあたって、インターセクショナリティの重要性を指摘している。また、マイクロソフトは1989年に差別禁止規定を定めて以降、インターセクショナリティをふまえつつ、LGBTQI+ 関連団体への寄付やPride運動のサポート、オリジナル製品の発表などをおこなっている。
また、インターセクショナリティはエンターテインメントの世界でも重視されている。例えば2021年のエミー賞主演女優賞では、ドラマシリーズ『Pose』に出演していたMJ・ロドリゲスがトランス女性として初ノミネートされたことが話題を呼んでいる。近年、映画の演技賞などで性別カテゴリの見直しが賛否両論を呼んでいるが、性的マイノリティかつアフリカ系アメリカ人とプエルトリコ人のルーツを持つ彼女のノミネートは、こうした賞レースでのホワイトウォッシュ(*1)が問題視される中で、インターセクショナリティの重要性を示している。
近年のフェミニズムやブラック・ライヴズ・マター(BLM)を理解する上でも重要なインターセクショナリティだが、そもそもどのような概念であり、どのような文脈で用いられているのだろうか。
(*1)ホワイトウォッシュとは、作品内の配役で白人の俳優、モデル、パフォーマーのみを起用したり、白人ではないキャラクターを演じるために白人の俳優を起用することを指す。
インターセクショナリティとは?
インターセクショナリティという語は、2015年のオックスフォード英語辞典への掲載をはじめ、メリアム・ウェブスター英語辞典にも掲載されるなど、英語圏ではすでに一般化した概念だ。より元来の定義を反映しているとされるオックスフォード英語辞典には、次のように記されている。
人種、階級、ジェンダーなどの社会的カテゴリーが相互に関連しており、差別や不利益のシステムが重なり合い、相互に依存していると考えられること、またそのような前提に基づいた理論的アプローチ。
つまり、インターセクショナリティとは、人種差別や性差別は個々別々の問題ではなく、それぞれの社会カテゴリー同士が複雑に絡み合いながら、差別や不利益の仕組みをもたらしている、という見方なのだ。
ではそもそも、インターセクショナリティという概念はどのように生まれたのだろうか。
キンバリー・クレンショーによる概念化
インターセクショナリティが初めて使用されたのは、1989年、コロンビア大学およびUCLAの法学部教授を務めるキンバリー・クレンショーの「人種と性の交差点を脱周縁化する:反差別の教義、フェミニスト理論、反人種差別主義政治に対するブラック・フェミニスト批評」という論文だとされている(*2)。
クレンショーはこの論文内で、経験や分析をめぐって、人種とジェンダーという両カテゴリを相互に排他的なものとして扱うことを問題視している。クレンショーは黒人女性を主題として取り上げる中で、彼女たちの経験がいかに多次元的か、そしていかに単一的なカテゴリーを軸にした分析がこうした経験を歪曲し、周縁化してしまうかを指摘した。
つまり、人種差別や性差別について取り上げる時、人種とジェンダーどちらか一方のカテゴリだけを取り上げ、カテゴリ同士がどのように関わり合っているのかを分析しないことは、両者が交差するような経験の実態を見誤り、かつ差別をめぐる諸問題そのものを見落としかねないのだ。
クレンショーの主張で重要なのは、単一的なカテゴリーを軸とした分析の枠組みが、フェミニスト理論や反人種差別的な政治的取り組みにも浸透しているために、その理論・実践の発展が阻害されていると指摘した点だ。黒人女性の場合、人種差別問題では黒人であることより女性であることに、性差別問題では女性であることより黒人であることに焦点が当てられる。つまり、他の社会的カテゴリーによって当該の差別問題から取りこぼされるのだ。この結果、「黒人女性」としての経験や差別をめぐる懸念は分析枠組みの中から取りこぼされてしまい、人種差別・性差別両方の問題からしばしば排除されてきた。
クレンショーはレイプや公私分離イデオロギー(*3)に対するフェミニストの批判や、黒人コミュニティ内の女性主導世帯(*4)に関する判例などを挙げながら、こうした問題を批判していった。
この上で、人種やジェンダーをめぐる交差的な経験を捉え、その複雑さを分析するための概念がインターセクショナリティだ。クレンショーは自身の試みについて、次のように述べている。
最も不利な立場にある人々のニーズや問題を解決し、その必要に応じて世界を再構築することから始めれば、特に不利な立場にある人々も恩恵を受けることができるはずだ。さらに、現在、社会から疎外されている人々を中心に据えることは、経験を区分けし、潜在的な集団行動を弱めようとする動きに対抗する最も効果的な方法であると思われる。
インターセクショナリティという概念は、社会の中で最も不利な立場に置かれた人々が持つ、差別をめぐる交差的な経験を重視することで、社会をより良くすることを目指し、また単一のカテゴリによって切り詰められてきた差別される人々同士の潜在的な結びつきを促すために生まれたと言える。
(*2)本論文の抄訳は、例えば日本発のクィア・フェミニズム系アートZINE「MULTIPLE SPIRITS/マルスピ」で読むことができる。また、クレンショーによるインターセクショナリティに関する2016年の講演(日本語字幕あり)はTEDで視聴できる。
(*3)原文ではseparate spheres ideology。生物学的に決定された性役割や宗教的教義などに基づいて、政治や有償労働、商業、法律などの公的領域から女性を締め出し、活動の場を家庭や私的領域に限定しようとするイデオロギーを指す。
(*4)原文ではfemale-headed households。男性パートナーが離死別や失業以外の理由で収入に貢献しない状況で、女性が唯一または主たる稼ぎ主である世帯を指す。「世帯主」は男性が担うべき役割であるという伝統的な前提に対し、実態を解釈し直す意義を持った概念である。