ジェンダーやセクシュアリティ、人種・エスニシティ、障害、年齢、宗教などをめぐって、差別や不平等にさらされているマイノリティによって、社会変革を求めるさまざまな活動が展開されてきた。コロナ禍前後の時期だけを見ても、#MeTooムーブメントやBlack Lives Matterなど、マイノリティをめぐる構造的な問題や差別への認識向上、多様性や公平性、平等の実現に向けた動きは続いている。
こうした目標の実現には、当事者であるマイノリティによる活動だけでなく、マジョリティが支援と連帯をすることも重要だ。なぜなら、マジョリティが享受している利益とマイノリティへの差別は表裏一体となっており、マジョリティが変わらなければ、こうした構造的な問題の解決は実現しないからだ。
当該の社会カテゴリに属する全ての人々が平等にではないものの、マジョリティは社会文化的な「特権」を有している。そしてこうした特権は、さまざまな社会カテゴリー同士が複雑に絡み合って成立している。
例えば、インクルーシブ教育の先駆的な取り組みでも知られる女性学者 ペギー・マッキントッシュは、「見えないナップザック」という比喩を用いて、男性であることと白人であることを例に、特権階級のメンバーが知らず知らずのうちに背負っている一連の利点を説明した。
彼女によると、特権とは誰かを抑圧してやろうという悪意ある努力の結果では必ずしもなく、制度の中にそもそも織り込まれたバイアスによって、マジョリティが利益を享受すると同時にマイノリティが生まれながらにして不利な立場に置かれる状況を指している。
では、こうした状況を変えるためにマジョリティに属する人々はどのように支援と連帯をすればよいのだろうか。
本記事では、アライという概念を軸にして、社会におけるマイノリティに対するマジョリティの支援と連帯のあり方について見ていこう。
アライの定義
社会正義の文脈において、アライは
支配的なイデオロギーを否定し、抑圧をなくすことがエージェントやターゲットの利益になるという信念に基づいて、抑圧に対して行動を起こすエージェント・グループのメンバーである。
と定義されている。ここでいうエージェントは抑圧する側のメンバーを、ターゲットは抑圧される側のメンバーを指している。つまり、支配的なイデオロギーの否定や抑圧をなくすことが、差別する側/される側の双方にとって利益となるという信念のもと行動することが、アライにとって重要なのだ。
また、LGBTQ+の社会運動の文脈では、ストレート・アライという言葉がある。この言葉は同性愛嫌悪(ホモフォビア)、両性愛嫌悪、トランスフォビアに抵抗し、平等な市民権やジェンダー平等、LGBTQ+の社会運動を支持する異性愛者、シスジェンダーの人々を指す。
このほかにも、人種/エスニシティの文脈ではホワイト・アライ、障害の文脈ではディサビリティ・アライなど、支援・連帯するマイノリティの社会的アイデンティティに沿って、いくつかの呼称が存在している。
インターセクショナリティ概念が現れて以降、社会的アイデンティティは重層的であり、差別や不平等の構造はさまざまな社会カテゴリーが複雑に絡み合っているという認識が広まったこともあり、アライのあり方もまた重層的になっているのが現状だ。
アライの歴史
アライというあり方にまつわる歴史を見ていくと、奴隷制度廃止運動やフェミニズム、そしてLGBTQ+に関わる社会運動と密接な関わりを持っている。アライという言葉そのものは必ずしも用いられてはいないが、マジョリティがこうした運動に対する支援や連帯、場合によっては主導的に活動をおこなってきた。
以下ではアライの歴史的背景として、それらの運動を見ていく。
17〜9世紀の男性思想家たち
17〜8世紀、女性の権利を擁護し、家父長制への批判や女性の闘争を(たとえ部分的であれ)支持するような男性思想家たちがフランスで現れた。
例えばフランスでは、ディドロやホルバック男爵、ヴォルテール、コンドルセ、モンテスキューなどが、現代においてプロフェミニズム的な男性思想家とみなされている(*1)。また18〜9世紀のイギリスでは、ベンサムやヘンリー・メイン、ジョン・スチュアート・ミルが、当時のプロフェミニズム的な男性思想家と考えられている。
女性運動への関わりや思想における女性の存在は、思想家ごとに程度や位置づけが異なる。とはいえ、現在のフェミニズムのあり方に一定の連続性を持って捉えられている点で、彼らも思想的な支援者としてアライの歴史的背景にあると言えるだろう。
(*1)ただし、フランス啓蒙思想における女性の位置づけは、必ずしも男女同権的とは限らず、また啓蒙思想が男性性の称揚につながった側面があるという指摘もされている。
奴隷制度廃止運動と第一波フェミニズム
フェミニズムとの関わりで重要なのは、アメリカで起こった奴隷制度廃止運動だ。運動そのものは17世紀後半から見られたが、政治運動として本格化し、かつフェミニズムとの関連で注視すべきは19世紀の動向である。
奴隷制度廃止論者には白人男性も多く(*2)、同時に女性参政権を含む女性の権利を擁護した論者も多かったことから、フェミニストともみなされていた。例えば、急進的な奴隷制度廃止運動家で運動の中心人物の一人とされるウィリアム・ロイド・ガリソン(1805-1879)は、運動において女性が指導的地位につくことを認めるべきと主張し、晩年の1870年代には女性参政権に関する論説を展開した。
また牧師のパーカー・ピルズベリー(1809-1898)は、奴隷制度廃止論者であると同時に、アメリカ平等権協会(AERA)で女性参政権獲得に向けた活動や女性の権利に関するニュースレターの共同編集者となるなど、白人男性ながら、人種・エスニシティとジェンダーをめぐる問題に取り組んだ。彼の甥でマサチューセッツ州上院議員を務めたA.E.ピルズベリー(1849-1930)も、白人ながら全米黒人地位向上協会/全国有色人種向上協会(NAACP)の前身にあたる全米黒人会議のメンバーであり、NAACPの定款を起草した。
白人女性も、奴隷制度廃止論者として活動していた。奴隷制度廃止運動にまつわる彼女たちの経験は、女性参政権を含む、女性の権利に向けた取り組みを刺激することにもつながった。
例えば、グリムケ姉妹として知られるサラ・グリムケ(1792–1873)とアンジェリカ・グリムケ(1805–1879)は、アメリカ南部での経験とクエーカー教徒としての背景から、奴隷制反対と女性の権利擁護を訴えた。ルクレシア・モット(1793-1880)とエリザベス・キャディ・スタントン(1815-1902)は、1840年の世界反奴隷制大会で女性が排除された経験から、1848年のセネカフォールズ会議で「感情宣言」を発表し、女性の参政権運動の先鞭をつけた。
(*2)いうまでもなく、奴隷解放運動や女性参政権運動、公民権運動には黒人が主体的に関わっていた。指導的な立場に立った人々については、本誌記事を参照されたい。
ストーンウォールの反乱をめぐる分裂
20世紀に入り、LGBTQ+の運動が進む中でも、支援と連帯のあり方が問われることとなった。