今月3日、匿名掲示板「2ちゃんねる」などの開設者ひろゆき氏が、沖縄・名護市辺野古(へのこ)を訪れて「新基地断念まで 座り込み抗議 3011日」と記す掲示板の前で「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」とツイートした。
これに対して、沖縄の玉城デニー県知事が「抗議を続けてきた人々への敬意が感じられず残念」と述べるなど批判の声が集まっているが、ひろゆき氏は「厳しい声をメディアの人が書いてるだけ」として、自身を擁護する声が多いと反論した上で
本気でトラック止める気もないし、機動隊の人たちもものすごく優しく丁寧だし。僕に対して強く言ってた人たちは、機動隊には強く言わないっていう。沖縄の未来って言ってて、若者たちが共感しないっていうのは、誰にとっての未来なのかなって
と抗議活動に否定的な見方を述べた。
そもそも辺野古には、なぜ座り込みをする人がいるのだろうか?そして、なぜ普天間基地は辺野古に移設されようとしており、2010年頃から強まり始めた「沖縄に対する構造的差別」をめぐる議論とは、何なのだろうか?
米軍基地の移設問題の歴史
辺野古では、米・海兵隊普天間飛行場(いわゆる普天間基地)の名護市辺野古(下記地図)への移設に反対する人々が、抗議をおこなっている。まずは普天間基地の移設が持ち上がった背景と、移転先として辺野古が選ばれた経緯を見ていこう。(*1)
沖縄県名護市辺野古の位置(Google Map)
(*1)本記事では、便宜上「本土」や「ヤマト」などの用語を用いている。こうした語には、歴史的文脈や植民地主義の観点からの批判が向けられているが、人口に膾炙したものとして便宜上使用した。
沖縄の反基地感情の高まり
沖縄は、1972年の本土復帰以降も多くの米軍基地が残された。中でも普天間基地は、東アジア最大規模の空軍基地となっている嘉手納基地と並んで、在日米海兵隊の最大規模の軍用飛行場として、長年重視されてきた。
この普天間基地の返還を求める声が強くなったのは、1995年の沖縄米兵少女暴行事件だ。この事件では、12歳の少女が米軍人3人から強姦されたが、日米地位協定による米軍の特権的な地位によって、起訴されるまで日本側が容疑者の身柄を確保できない状況が問題視された。これにより「30年以上のうちで、米軍に対する最も激しい抗議」が起こり、同協定のあり方や沖縄の基地問題などが議論されるきっかけとなった。
また、普天間基地は宜野湾市(ぎのわんし)の中心部に位置することから、「市街地に位置し、住宅や学校で囲まれ、これを利用する航空機が市街地上空を飛行するため、世界で最も危険な飛行場」とされてきた。実際に同基地の周辺では、米軍機に関連した事故が頻発しており、こうした危険性の観点や騒音をめぐる苦情からも、移設を求める声が長年存在した。
こうした反基地感情が、沖縄米兵少女暴行事件によって噴出したことで、90年代後半から普天間基地をめぐる議論は、一気に政治問題化することとなる。
SACO 報告書(1996年)
加えて1990年の沖縄県知事選挙で、大田昌秀県知事が勝利していたことも重要な背景だ。米軍基地の撤去を掲げて当選した大田は、県知事となった初めての左派(革新)系政治家であり、ここから米軍基地や日米地位協定をめぐって、政府と沖縄行政の対立が鮮明化していくことになる。後述するが、沖縄は自民党に近い保守系政治家と、革新系政治家が交互に県知事を務める県政が展開されており、基地をめぐる両勢力の政治的対立は、1990年代から本格化した。
大田昌秀県知事と橋本龍太郎首相(Cabinet Secretariat, CC BY 4.0)
大田は、沖縄米兵少女暴行事件が起こったことから、日米地位協定の海底と基地の統合縮小を求める動きを本格化。民有地を米軍用地として強制使用することを許可するために、知事が「代理署名」をおこなう手続きを拒否する事態も起こった。(*2)
沖縄世論の高まりを受けて、日米両政府は基地問題に取り組む必要に迫られた。そこで誕生したのが、「沖縄県民の方々の御負担を軽減し、それにより日米同盟関係を強化する」ことを目指した、Special Action Committee on Okinawa(SACO、沖縄に関する特別行動委員会)だ。沖縄県に配慮した日本政府は、SACOを通じて、基地の縮小を実現することを目指した。
1995年に設置された SACO は1年かけて議論をおこない、翌年に発表された最終報告書で
- 沖縄県の米軍基地・施設の約21%にあたる11施設・約5,002ヘクタールの返還
- 普天間飛行場の返還および代替ヘリポートの建設(新基地の建設)
- 日米地位協定の運用改善
などが合意された。この時点では辺野古という具体的地名は明示されなかったものの、新たな施設が「沖縄本島の東海岸沖に建設」すると明記された。これが、後の辺野古新基地となる。
(*2)代理署名をめぐって裁判がおこなわれ、1996年に沖縄側が敗訴。
米国側の意図
このプロセスにおいて重要な点は、SACO の設置は必ずしも沖縄県民への配慮のみで生まれたわけではないことだ。
そもそも、米ソ会談において冷戦終結が宣言された1989年から2001年の米同時多発テロまで、在日米軍をはじめとする在外米軍は削減傾向にあった。
第二次世界大戦後、朝鮮戦争やベトナム戦争によって在外米軍の戦力は、多くがアジア太平洋地域に割かれていた他、冷戦の最前線となったドイツには、一貫して大規模な米軍が駐留していた。ところが1990年代、冷戦の終結によって在外米軍の兵力が世界的に大幅削減され、米軍の再編(Transformation)が進んでいたためだ。
2001年の米同時多発テロからアフガニスタンおよびイラク戦争によって、在外米軍は再び中東地域への展開を余儀なくされるが、少なくとも基地問題が持ち上がった1990年代半ばに、米軍が東アジアに兵力を割く、取り立てて強い事情は無かったと言える。そのため、この傾向を受けて在沖米軍の規模が大幅縮小され、大規模な基地返還が進んでもおかしくはない状況であった。
にもかかわらず、1990年代を通じて在沖縄米軍の規模は維持された。その理由について琉球大学の山本章子准教授は、米国政府が
1993〜1994年の北朝鮮危機後に策定した朝鮮有事作戦計画にもとづき、沖縄に保有する米軍基地機能を強化するため、嘉手納近辺に普天間飛行場の代替基地を建設するという政策を採用した
ためだと指摘する。つまり、北朝鮮情勢によって普天間基地は縮小ではなく移設することが決定したのだ。
北朝鮮は、1993年に核拡散防止条約(NPT)から脱退し、同年に初めて、日本海に向けて準中距離弾道ミサイル・ノドン1の発射実験をおこなっていた。また当時、中国の覇権主義が露呈していたわけではなかったが、同国が「責任ある大国」になるためには、東アジアのパワーバランスを保つ日米同盟が堅固であることも重視された。
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こうした東アジアの安全保障環境を重く見たクリントン政権(当時)は、ジョセフ・ナイによる『第三次東アジア戦略報告(EASR)』を公開。1990年時点での13.5万人規模から削減が続いていた東アジアの米軍兵力を10万人規模で維持することを決定し、地域の安定に寄与する方針も明確化された。
冷戦終結によって、日米同盟の地位そのものが日米両国内で低下する兆候すら見え始めた中、同報告書は、経済的に急成長している東アジアの安全保障が、米国の国益にとって根本的に重要であることを示した。言い換えれば、この方針によって、在沖縄米軍の兵力の大幅削減や基地の大規模な返還、あるいは遠隔への移転という可能性は、ほとんど無くなったと言える。
つまり米国側にとって SACO の設置は、沖縄の県民感情などに配慮しつつも、あくまで東アジアの兵力維持を前提とした交渉だった。そのため、山本章子によれば「沖縄県の要請として普天間飛行場の『返還』が日本側から提起されたこと」は予想外であり、「メディア報道で普天間返還への期待は高められた」ことにも困惑していたという。
最終的に米・国防総省は、普天間飛行場の返還(return)ではなく移設(relocation)を検討していくが、沖縄の反基地感情と米国の思惑は、当初から折り合うことが容易ではなかったのだ。
辺野古案の登場と閣議決定(1999年)
SACO 報告書の翌年となる1997年、沖縄県名護市にあるキャンプシュワブ沖で、政府によるボーリング調査が開始された。キャンプ・シュワブとは在日米軍海兵隊の基地であり、約20.63平方km(名護市の約1割)におよぶ広大な土地に広がっている。
中部に位置するキャンプ・シュワブ(辺野古)と南部に位置する普天間基地(普天間飛行場)(内閣府沖縄総合事務局「2017年 群星 特別号」より, CC BY 4.0)
実は普天間基地の移設が話題になる前から、キャンプシュワブ沖での新ヘリポートの建設について検討が進んでいた。SACO 最終報告書の公開直後である1996年12月、衆議院・安全保障委員会では移設候補地について
もう既に候補地が決まっているのではないか。幾つか選択肢があるとするならば、幾つ程度あり、それはどこなのか。シュワブ沖にほとんど絞っているのではないか、こういうふうにも見られておりまして
と指摘されている。
このように早期から辺野古への移設案は知られていたが、事態が大きく動く要因となったのは、1998年の沖縄県知事選で現職・大田昌秀知事が破れ、稲嶺惠一が勝利したことだった。普天間基地の県外移設を主張する大田に対して、稲嶺は ①軍民共用空港 ②15年の使用期限 ③移転先となる北部振興という条件を付けることで容認案を打ち出した。
稲嶺の勝利によって1999年、沖縄県はキャンプシュワブ沖、すなわち辺野古への条件付き移設を決定し、同地域が位置する名護市も、基地受け入れを表明した。関連自治体の決定を受けて、同年末に政府も閣議決定(1999年閣議決定)をおこない、これによって辺野古への米軍基地の移設が正式決定することになった。
条件付き移設の破棄
ところが、ここから沖縄の基地問題をめぐる議論は二転三転していく。よく知られるのは鳩山政権による移設先の「最低でも県外」という発言だが、実はそれ以前から交渉は暗礁に乗り上げていた。
具体的には2006年に「在日米軍の兵力構成見直し等に関する政府の取組について」という閣議決定がなされたことで、改めて辺野古移設が確認されつつ「1999年閣議決定」が破棄されたことだ。これにより沖縄の要望であった ①軍民共用空港 ②15年の使用期限 という条件そのものも消え去り、再び「辺野古移設」という決定事項のみが残ることになった。
政府と関連自治体との十分な協議がないまま閣議決定に至ったことを「極めて遺憾」と述べた稲嶺知事は、この状況を以下のように振り返っている。
2006年、在日米軍再編協議において、移設先は現在地に決定したが、「軍民共用」「使用期限付」の条件は消え失せ、私は同意する訳にいかず、さりとて政府と全面的に対立して前県政の轍を踏むわけにもいかず、今後の継続協議を条件に基本確認書を取り交わした。
1999年閣議決定が破棄された理由は、3つの方向から説明できる。1つは、1999年閣議決定でも「代替施設の使用期限については、国際情勢もあり厳しい問題があるとの任認識を有している」と述べられたように、そもそも沖縄側が提示した条件について、日米両政府は必ずしも前向きではなかったことだ。
もう1つは、辺野古基地の詳細な位置について「沿岸案」や「埋め立て案」、「陸上案」などで議論が紛糾したものの、いずれも沖縄県や名護市の頭越しに議論が進められたことだ。これにより国と自治体の溝はますます深まることになり、交渉の余地は小さくなっていく。
そして最後に、2004年に沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件が起きたことだ。これにより沖縄県で普天間基地の返還要求は高まり、日本政府は事故を利用する形で「沿岸案」の安全性を主張し、基地移設を早期におこなうべきだと主張とした。県側はこうした国の姿勢に不信感を抱いたが、これらも国と自治体の溝を深める材料になってしまった。
墜落現場となった沖縄国際大学1号館(Sketch, Public domain)
また当時の小泉政権も、郵政民営化などに集中していたため、小泉純一郎首相は米軍基地の本土移設を検討していたこともあったが、具体的に動きが進むことはなかった。小泉にとって沖縄の基地問題は、政治的な優先事項ではなく
政府が具体的な地名を挙げて、移転先の自治体と交渉した形跡はいっさい認められなかった。小泉の「軽さ」は、「誠意のなさ」と紙一重と見えなくもなかった
と指摘される。
在沖縄米軍の一部グアム移転
加えて事態を複雑化させたのが、在沖縄米軍の一部グアム移転が絡んできたことだ。沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件によって、沖縄の反基地感情は高まっており、小泉政権および米当局も事態打開を模索していた。
その交渉カードとして出てきたのが、沖縄の負担軽減を名目としたグアム移転だった。2005年の「日米同盟:未来のための変革と再編」では、在沖縄米軍の一部をグアムに移転させること、その費用を日本側が負担することが記された。
ただし問題は、辺野古移転とグアム移転がパッケージ化されたことだった。これによって米国側は、グアム移転に関連した予算の履行という論点が生じ、日本国内でもグアム移転費用を負担することに対して強い反発が生じた。
「最低でも県外」(2009年)
そして基地移設問題を決定的に困難にしたのが、2009年の鳩山由紀夫首相による「最低でも県外」発言だった。
鳩山由紀夫首相(Kantei, CC BY 4.0)
そもそも民主党は、沖縄関連の政策をまとめた「沖縄ビジョン(2008)」をはじめとして、在沖縄米軍基地の大幅な縮小を訴えてきた。そのため鳩山も総選挙期間に県外移設を主張して、結果として10年以上にわたって築かれてきた普天間基地移設および辺野古案に関する合意は、すべて白紙に戻ることになった。
ところが、具体的な代案はもちろん、党内の共通見解すらも無いまま県外移設を主張したことで、事態は迷走を繰り返した。米・オバマ大統領にも「trust me(私を信じて)」と早期決着を約束したものの、難航する調整によって日本政府に対する米国からの不信感も高まった。何より、沖縄県や名護市などの市民は、一時的にも県外移設への期待を膨らませ、最終的に反故される結果となった。
日本の首相が「最低でも県外」を掲げたことは、沖縄に大きな負の遺産を残してしまった。ここまで見たように、必ずしも鳩山の発言のみが事態に混迷をもたらせたわけではなく、政府による条件付き移設の破棄や頭越しの交渉なども沖縄の不信感を強める一因だったが、それでも民主党政権下における混乱は、基地移設問題を決定的に難しい状況へ追いやった。
2010年の県知事選で再選を果たした仲井真弘多知事は、こうした沖縄の県民感情を受け止め、条件付き容認派だった立場から、県外移設の姿勢を打ち出した。当時は、民主党政権も辺野古移設を「やむ無し」という立場を取っていたが、沖縄県内では県外移設の期待を踏みにじられた失望から、もはや県外移設以外は受け入れない空気が生まれていた。
仲井真知事の翻意
ところが、2013年に再び転機が訪れる。県外移設を訴えて当選した仲井真が、突如として辺野古沿岸部の埋め立てを承認したのだ。
仲井真弘多知事(United States Marine Corps, Public Domain)
すでに述べたように、仲井真は2010年の選挙では県外移設を訴えており、急転直下の翻意と見られてもおかしくなかった。この決定に、基地移設問題に取り組む多くの団体や個人が驚きと怒り、失望の声を挙げた。
たとえば、琉球新報は
- 大多数の県民の意思に反する歴史的汚点というべき政治決断であり、断じて容認できない。
- 辺野古移設反対の県民意思を顧みない知事判断は、県民の尊厳を著しく傷つけるものだ。
などと強い口調で非難した他、沖縄タイムスも
- 政治家の命綱である「選挙公約」をかなぐり捨てた姿というほかない。
- 知事はもはや、県民の負託を受けた政治家としての資格を自ら放棄したと言わざるを得ない。
と怒りを隠さなかった。沖縄県が埋め立てを承認することは、自治体として基地移設に反対するための最大のカードだったため、基地移設問題はこう着状態を抜け出した。
翻意の理由
ではなぜ、仲井真は突然翻意したのだろうか。決定に至った議事録やメモなどは存在しないため、あくまで仲井真個人の政治判断であるが、大きく3つの理由が考えられている。
1つ目は、仲井真が記者会見で述べたように、市街地に位置する普天間基地の危険性を一刻も早く除去することが「最大の課題」であるという考えだ。会見で仲井真は、自身が引き続き県外移設の立場にあることを強調しつつ、それでも尚、危険な普天間基地を移設することが重要だという姿勢を示していた。
当初から普天間返還の理由としては、その危険性が挙げられていたし、2004年の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件によって、普天間周辺住民の懸念は一層高まっていた。そのため仲井真による主張も、一定度の妥当性はあった。
2つ目としては、振興策の存在だ。沖縄振興のための予算は、他県と同様に国庫支出金から支払われるが、沖縄の場合は内閣府沖縄担当部局が一括して扱うことから、まとめて沖縄振興予算と呼ばれる。埋め立て承認がおこなわれた翌年、2014年度の振興予算については、概算要求額3,408億円を52億円超える総額3,460億円となっていた。
知事の埋め立て承認の背景には、この予算増額との取引(バーター)があったと指摘されており、琉球新報は
判断は、基地問題と振興策を取引したこと一つを取っても、国内外にメディアを通じて「沖縄は心をカネで売り渡す」との誤ったメッセージを発信したに等しく、極めて罪深い。辺野古移設で取引するのは筋違いだ。振興策も基地負担軽減も本来、国の当然の責務だ。その過大評価は県民からすれば見苦しい“猿芝居”を見せられるようなものだ。
と批判している。実際、仲井真は埋め立てを承認する直前、安倍首相との会談を終えて「良い正月になるなあ」と発言し、振興予算の増額が認められたことなどを評価していた。
そして3つ目としては、沖縄の経済的自立に対する想いだ。後述するように、沖縄は貧困や全国最低水準の県民所得などの厳しい経済状況に苦しんでいる。そこで仲井真が目指したのが、観光立県としての沖縄だ。中でも那覇空港の第2滑走路を建設することで、観光客の受け入れキャパシティを増加させることは重点施策であり、政府としても条件付き容認派が求めた ①軍民共用空港 が反故にした代わりとして、滑走路建設の補助をおこなっていた。
埋め立て承認の代わりとして、滑走路建設の工期を短くする交渉も進められており、観光立県を目指す立場からも仲井真は承認を選んだと思われる。
いずれにしても、2013年の埋め立て承認によって辺野古移設はほとんど決定事項となった。ところが、今度は仲井真の翻意によって、沖縄内の結束が強まることになる。いわゆるオール沖縄としての翁長雄志(おながたけし)および玉城デニー県知事時代の誕生だ。
オール沖縄の誕生
埋め立て承認によって、基地移設問題は行政上のこう着状態を抜け出したが、そのことは辺野古移設の反対者が容認したことを意味するわけではない。むしろ、これまで「保守 vs 革新」として規定されていた沖縄政治は、辺野古移設への反対として一本化され「オール沖縄 vs 政府 = ウチナー(沖縄)vs ヤマト(日本本土)」の構図へと変わっていく。
日本政治の文脈において、保守とは自民党支持などの立場を指し、一方で革新とは共産党など左翼政党の支持を指す。しかし沖縄においては、基地を一定の条件付きであっても容認する立場を保守と呼び、反対の立場を革新と呼ぶ。たとえば基地撤去を掲げる大田昌秀は革新系であり、条件付き移設を容認した稲嶺惠一が保守系となる。
オール沖縄とは、こうした保守と革新の立場を超えて、沖縄のために連携した政治グループだ。2010年代前半から徐々に高まってきた沖縄が「差別されている」という意識の強まりと、永田町の論理に疲弊した沖縄県民の想いを背景として、沖縄の結束と本土との溝の強まりから誕生した。
以降、「沖縄に対する構造的差別」という考え方が、重要なキーワードとなっていく。たとえば2012年の世論調査で、沖縄の米軍基地が減らないのは「本土による差別だ」と答えた人が、沖縄では50%に上った一方、全国では29%に留まっている。基地移設問題が、日本の安全保障や沖縄の負担軽減など妥協可能な政治的議題から「沖縄に対する構造的差別」というアイデンティティの問題へと移り変わったことで、両者の対立はますます妥協困難となった。
オール沖縄の代表として登場したのが、2014年の県知事選で仲井眞弘多を大差で破った翁長雄志だ。もともと翁長自身も保守系の政治家として辺野古移設に賛成しており、稲嶺・仲井真両知事の補佐をおこなっていた時期もある。その翁長が、新たにオール沖縄を打ち出し、基地移設反対を掲げたのだ。
しかし翁長は、2018年に膵臓がんにより急逝。その後を継いだのが、現在の県知事である玉城デニーだった。
玉城デニー知事(Kantei, CC BY 4.0)
訴訟と反対運動
オール沖縄の結束以降、国と自治体の政治的交渉はほとんど見られなくなった。
政府は「粛々と埋め立て工事を進める」姿勢を崩しておらず、地元の反対運動がありつつも、埋め立てが完了した地域も出ている。一方の沖縄県も、国を相手取った複数の移設関連訴訟で敗訴が続いており、移設中止に向けた明確な戦略は不在だ。オール沖縄内部の綻びも指摘されており、今月23日に投開票がおこなわれる那覇市長選でもオール沖縄が割れている。
また、相次ぐ訴訟などで工事の遅れも目立っており、工期は10年におよび、普天間基地返還は2030年代にずれ込む見込みだ。
軟弱地盤とサンゴ礁の破壊
裁判の根拠ともなっており、工事の遅れをもたらしている理由の1つとして、辺野古沖の軟弱地盤の問題がある。
辺野古の海底には軟弱地盤が広がっており、この上に建造物をつくると地盤沈下や崩壊が発生する可能性があるため、基地を建設するためには、7万本以上の杭を打ち込む大規模な地盤改良工事が必要となる。政府は2015年の段階で、地質調査の業者から軟弱地盤の存在を指摘されており、工期が大幅に変更になる可能性を認識していたが、国会でその問題を認めたのは2019年だった。
また同地域にはサンゴ礁が広がっており、工事による破壊も懸念された。政府は、埋め立て工事の予定海域にあるサンゴ礁の移植を求めているが、沖縄県側が不許可としており、これに国が対抗措置を取る事態も続いている。
現在、基地移設に反対する論理としては、当初の条件付き移設や「最低でも県外」などが反故されたこと以外にも、軟弱地盤の問題を隠した政府の姿勢や、サンゴ礁の破壊といった環境破壊なども加わっている。
困難な妥協
ここまでの歴史が示唆することは、東アジアの安全保障環境や日米同盟などの国際関係、条件付き移設の反故や政権交代をめぐる混乱などの日本政府の不備、「保守vs革新」から「ウチナー(沖縄)vsヤマト(日本本土)」に至るまでの変遷など、複数要因が問題を複雑化させてきたことだ。
山本章子は、その困難性を以下のように指摘する。
政権や県政が替わり、また北朝鮮や中国の軍事能力・行動が増す中で、日米両政府が普天間返還の条件をたびたび一方的に変更したことで、沖縄側の不信感と反対は強くなる一方だが、それと反比例して、両政府の沖縄に対する譲歩の余地は限りなく小さくなっている。
しかも、日本政府と沖縄が互いに政治的な対抗策をとり非難の応酬をくり返したことで、この問題はイデオロギーやアイデンティティの問題になってしまった。「沖縄は金目当てで反対」「反基地運動の背後に中国」という政府寄りの見方も、「日本本土は沖縄を差別」という沖縄寄りの見方も、互いの歩み寄りや妥協を困難にしている。
沖縄の "民意" は?
ここまで基地移設問題の経緯について、概ね日本政府と沖縄県の軸から捉えてきた。ただ同時に、沖縄内部にも相反する見解があることも事実だ。ひろゆき氏は、基地移設の抗議者に「若者たちが共感しない」と指摘するが、果たしてそれは事実なのだろうか。
割れてきた沖縄世論
まず当たり前の事実だが、基地移設問題が提起された1990代後半から、沖縄世論が一枚岩だったことはない。
たとえば1996年には、日米地位協定の見直しと基地の整理縮小に関する県民投票もおこなわれ、両者への賛成が89.09%(投票率59.53%)という結果となった。この県民投票がおこなわれたのは SACO 報告書が刊行された時期であり、論点も「県外移設か否か」というよりも、沖縄に集中する米軍基地への不満および縮小だった。
ところが1997年に名護市で実施された住民投票(投票率82.45%)では、辺野古での基地受け入れについて「反対」と「環境対策や経済効果が期待できないので反対」は計54%、「賛成」と「環境対策や経済効果が期待できるので賛成」は計46%だった。結果は、基地受け入れへの反対が上回ったものの、比嘉鉄也名護市長(当時)は基地受け入れを表明している。
1996年の沖縄県全体では、基地の整理縮小を圧倒的多数が支持しているにもかかわらず、翌年の名護市の住民投票では半数近くが受け入れに賛成している点からも、基地受け入れに関する複雑な立場が見て取れる。
その後も、名護市長は受け入れ容認派の当選が続いており、民主党政権下で「最低でも県外」論が出てきた時期を除けば、最近でも移設への賛否を示していない渡具知武豊市長が、2018年と2022年で連続して当選を果たしている。受け入れ先である名護市ですら、条件付き容認が一定の支持を集めてきたことは、基地移設問題の争点が単なる賛否に留まらないことを示唆しているだろう。
基地への意識変化
基地そのものに対する意識も変化している。
2000年の沖縄県民を対象とした政府世論調査では、沖縄に米軍基地がある現場について「日本の安全にとって必要である」と「日本の安全のためにやむをえない」が合わせて45%(9.8%, 35.9%)を超えており、1989年の計35%よりも高い結果となっている。この時期は、稲嶺の当選によって条件付き移設が決定した直後であり、消極的でありながら基地受け入れは「やむ無し」という意識が、半数近くにのぼってきたと言える。
嘉手納飛行場(Sonata, CC BY-SA 3.0)
同様の変化は、NHKによる世論調査でも確認でき、本土復帰30年となる2002年の調査では、日本の安全にとって「必要+やむをえない」と「必要でない+かえって危険」が拮抗し、本土復帰40年の2012年の調査では「必要+やむをえない」が56%となり、過半数を超えた。この調査結果は、仲井真が翻意した2013年よりも前であることに注意する必要はあるが、「最低でも県外」が反故にされた2009年より後の時期でもある。政治的混乱がありながらも基地に対する意識は、1990年代から「大きく変化」したことが分かる。
また沖縄県内であっても、普天間基地がある宜野湾市では、異なる事情があることにも注意すべきだ。2016年には、現職・佐喜真淳氏が大差で再選を果たしているが、同氏は自民党らが支持していた。この時期は、沖縄全体でオール沖縄の流れが盛り上がった時期でもあり、この選挙結果を辺野古移設に賛成する "民意" として捉えるか否かが議論された。選挙結果の意味はさておき、普天間基地を抱える宜野湾市は長年、「基地移設は悲願であるが、辺野古移設への賛否を明らかにしづらい」という難しい立場に置かれてきた。
民意の表出
しかし、沖縄の民意という意味では、決定的な出来事が2019年の県民投票だ。
2019年、辺野古埋立ての賛否を問う県民投票(投票率52.48%)がおこなわれ、71.7%が反対の意思を示した。辺野古移設の是非のみで民意が問われた中、投票者の多くが反対する結果となった上に、反対票は有権者の4分の1を超えている。この結果を一瞥すれば、沖縄の民意が基地移設への反対にあることは間違いない。
ただし注意すべきは、この賛否の内情についても複雑であることだ。NHKの出口調査によれば、反対理由として最も多かったのは「沖縄の過重な基地負担」であり、賛成理由としても「普天間基地の危険性除去」が挙げられ、賛成・反対ともに「基地負担を軽減してほしいという思いは共通していた」。賛否という二択の向こう側には、基地負担の軽減に対する想いがあることを想起する必要がある。同じく毎日新聞の出口調査でも、賛成・反対ともに「普天間撤去」を投票理由に挙げており、25年以上も普天間基地移設が停滞していることへの忸怩たる想いが示唆される。
こうした世論をどのように解釈するかは難しいところだが、少なくとも「沖縄にも基地賛成派がいる」という単純な話ではなく、その複雑性を強調するべきだろう。
本土復帰から50年となる2022年の世論調査では、米軍基地を「日本の安全にとって、必要だ」と「日本の安全にとって、やむを得ない」とする声が、あわせて60%(10.6% + 50.7%)を超えた。基地の存在そのものを消極的にでも容認する声は、ついに6割を超えた一方、前述したように沖縄の民意は基地移設への反対にあり、その背景には基地負担の軽減を願う声がある。
普天間返還が持ち上がってから25年が経過した現在、沖縄には「オール沖縄」だけでは括れないアンビバレントな "民意" が存在している。
世代間でも温度差
また現在、基地移設問題には世代間での温度差が見られることも確認する必要がある。
2022年の世論調査によれば、沖縄に基地が集中する現状について「差別的だと思う」と答えた人は、60歳代以上が60%程度だったが、30歳代以下は25%程度だった。米軍基地に関連する事件・事故を体感してきた高齢世代に対して、若者世代の間では基地があることを当然として受け取る声もあるという。
琉球新報の「2021年県民意識調査」でも、70代以上の79%以上が米軍基地の撤去・縮小を求めているのに対して、20代・30代はともに42%程度に留まった。こうした現状を沖縄国際大学の野添文彬准教授は
若者世代は、両手をあげて基地に賛成するわけではない。できればないほうがいいと思っている。しかしこれからこの島で生きていく人間として、先の見えない基地問題よりも経済を優先すべきではないのかーーそうした現実主義を持ってもいる。
と分析する。有権者の世代交代が進む中で、若者世代が「基地問題よりも経済を優先する傾向がある」ことは多く指摘されている。
ただし野添は
沖縄戦とその後の米軍統治の下で沖縄に基地が形成されてきたという歴史の上に、現在の沖縄の経済・社会問題があるのだ。戦争や米軍統治といった体験がない若い世代は、現在の問題を「今」という視点で見がちだが、その背後にある歴史や構造を理解する必要がある。
とも指摘する。後ほど述べていくが、沖縄の厳しい経済状況は基地問題と不可分であることも事実で、両者を二項対立的に捉えるべきではない。
また、高齢世代が経済問題を重視する若者の苦しみを無視している、と単純化した世代間対立としてのみ捉えることも適切ではないだろう。彼らの念頭には「戦中・戦後の沖縄が置かれた悲惨な状況」があり、「こんな苦しみをこれからの世代の沖縄の人々に引き継がせたくない。そういう思いがここに座る人々の原動力」になっているからだ。
なぜ辺野古で座り込みをする人がいるのか?
ここまで、辺野古で座り込みをする人がいる理由を見てきた。その答えは、一義的には普天間基地の辺野古移設への反対だが、ここまでの経緯を見る限り、答えはより複雑なものだと示唆される。そのことは、翁長が掲げた「イデオロギーよりアイデンティティ」という言葉によって象徴される。
繰り返しとなるが、本土復帰から40年間で基地に対する意識は大きく変化し、世代間では温度差も見られ、沖縄県内の地域差についても確認できる。にもかかわらず、基地移設問題が四半世紀に渡って膠着状態にあり、強く政治問題化している理由は、それが「アイデンティティ」の問題となっているからだ。
言い換えれば、ひろゆき氏が立て看板を「汚い字」と述べたり、「沖縄の人って文法通りしゃべれない」と発言することは、単なる基地移設への抗議活動の揶揄ではなく、そのアイデンティティへの攻撃と捉えられた可能性が高い。
では、そのアイデンティティとは何を指しているのだろうか。(*4)
(*4)政治的な意味で、アイデンティティは消極的に用いられることがある。たとえばアイデンティティ・ポリティクスを批判したリチャード・ローティなどの論者がいる。ただし本記事では、アイデンティティが争点化することへの価値判断には、あまり踏み込まない。ただしアイデンティティの争点化については、安里長従・志賀信夫『なぜ基地と貧困は沖縄に集中するのか?』(堀之内出版、2022年)がシティズンシップの観点から擁護している。
沖縄に対する構造的差別とは何か?
すでに述べたように、2010年頃から「沖縄に対する構造的差別」という言説が増え始めた。たとえば本土復帰50年に新たに公開された建議書には
在沖米軍基地の更なる整理・縮小、日米地位協定の抜本的な見直し、基地の県外・国外移設、事件・事故等の基地負担の軽減、普天間飛行場の速やかな運用停止を含む一日も早い危険性の除去、辺野古新基地建設の断念等、構造的、差別的ともいわれている沖縄の基地問題の早期の解決を図ること。
が求められており、構造的差別を問題視している。
では、この構造的差別とは何を指しているのだろうか。沖縄大学長の新崎盛暉は「沖縄現代史を貫いているのは、構造的沖縄差別の上に成立する日米安保体制(日米同盟)と沖縄民衆の闘いであった」と述べ、日米安保体制の矛盾が沖縄に押し付けられている状況を問題視した。
また司法書士の安里長従氏と県立広島大学の志賀信夫准教授は、「本土優先―沖縄劣後」という歴史的につくられた「自由の不平等」を構造的差別だと指摘する。
全ての「沖縄に対する構造的差別」を明示することは出来ないが、大きく3つのポイントに注目していこう。具体的には 1. 基地負担の偏重 2. 厳しい経済状況 3. 沖縄の歴史的歩みだ。
1. 基地負担の偏重
沖縄に米軍基地と、それがもたらす様々な負担が偏重していることは、多くの人が認めている。よく知られているのは「国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約70.3%が集中」している事実(*3)だ。そして基地の集中は
振興開発上の障害ばかりでなく、米軍人・軍属等による事件・事故の被害、騒音による生活への悪影響、さらには汚染物質の流出等による自然環境破壊などの住民の安全や安心を損なう諸問題
など様々な負担をもたらす。しかし、なぜ基地負担が沖縄に偏重しているかは、あまり知られていない。大きく(1)軍事戦略上の理由(2)歴史的経緯(3)政治的妥協について見ていこう。
(*3)米軍専用施設と日米共同利用施設の違いから、「基地の多くは日米共同利用。米軍関連施設を全て含めれば、沖縄にあるのは22%程度でしかない」とする論者もいるが、この数字は沖縄の基地負担を考える上ではあまり有用ではない。そのため、こうした数字を持ち出して「沖縄の基地負担が大きいというのは幻想」とする比較は、不適切だろう。
(1)軍事戦略上の理由
中国やロシア、北朝鮮など東アジアをめぐる情勢が緊迫化し、台湾や朝鮮半島とも近い沖縄は、米軍にとって戦略的に重要な場所だと言われる。そのため、軍事戦略上の必然性から沖縄の基地偏重は仕方ないとする論調がある。
しかし、台湾有事が現実的な危機として認識されたのは過去10年ほどであり、少なくとも冷戦期においては旧ソ連に近い北海道こそが、戦略上の重要拠点だった。にもかかわらず冷戦期の米軍は、北海道から撤退しており、沖縄よりも朝鮮半島に近い九州北部の基地も手放している。
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しかも、冷戦期から1990年代前半の北朝鮮危機まで東アジアの米軍兵力は削減傾向だったことは既に見た通りで、在沖縄米軍の規模は流動的なものだった。もちろん米軍基地の規模・位置は、その時々の国際政治および安全保障環境によって左右されるため、軍事戦略上の理由がゼロとは言えない。
しかし、現在の基地負担の偏重を軍事戦略上の理由のみで説明することには、無理があるのだ。
歴史的経緯
そこで重要となるのが、(2)歴史的経緯と(3)政治的妥協だ。まず歴史的経緯については、在沖縄米軍基地の多くが、米国による統治下で建設されたことを確認する必要がある。
沖縄は、1945年(昭和20年)の米軍による沖縄占領から1972年の本土復帰まで、27年間に渡って米国による統治下にあった。終戦直後の沖縄住民は収容所に隔離され、その住民が暮らしていた土地に、普天間飛行場や嘉手納飛行場が建設された。また朝鮮戦争などで新たな基地が必要になったことから、その後も「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強制接収を通じて、キャンプ・フォスターなどの土地が確保された。
特に1950年代後半からは、本土で米軍基地の整理縮小の流れがあり、各地から沖縄に海兵隊の移転が進められた。その結果、1960年代末には本土と沖縄の基地面積が逆転し、1970年代に現在のような7割が沖縄に集中する構図が出来上がった。
政治的妥協
そして、この構造が政治的妥協によって生まれたことも重要だ。たとえば小泉純一郎首相は、2005年に
総論賛成・各論反対で、沖縄県の負担を軽減するのはみんな賛成だが、どこに持っていくかとなると、みんな反対する。賛成なんてだれもいない。
と述べて、沖縄の基地負担軽減には全員が賛成するものの、代わりに基地負担を認める自治体がないことを明かしている。また安倍首相も2018年に
沖縄の基地の負担軽減につきましては、これも振り返ってみれば、さまざまなプランを考えても、日米間の調整が難航したり、移設先となる本土の理解が得られないなど、さまざまな事情でなかなか目に見える成果が出なかった
と述べている。言い換えれば、沖縄は本土の政治的力学によって基地を「押し付けられて」きたのだ。
つまり東京工業大学の川名晋史准教授が述べるように
戦後の在日米軍基地の配置は、地理や脅威をはじめとした外部環境によってのみ形成されてきたわけではない。国内で生じる米兵による犯罪や事故、地方選挙の結果といった社会的・政治的摂動が基地の再編を促し、そのたびに、外部環境との相互作用をつうじた調整がなされてきた
のだ。
基地負担の偏重が、歴史的経緯と政治的妥協にあることを考えれば、「沖縄に対する構造的差別」の一端が見えてくる。米国による沖縄統治という特異な歴史的経緯を持ちつつ、本土復帰までに多くの基地が「押し付けられ」、その後も本土の政治的力学の中で現在に至っている背景は、まさに日米安保体制の歪みと「本土優先―沖縄劣後」という構造を反映している。
2. 厳しい経済状況
沖縄は、これまでの選挙で常に「基地か経済か」という二択を迫られてきた。また、この二分法は「基地のみが争点ではない」という論理をもたらし、2019年の県民投票まで "民意" の所在を覆い隠してきた。
しかし、基地の存在が沖縄の経済を規定してきたことも紛れもない事実だ。それは、いわゆる「基地依存型経済」や「生活のために基地が無くなって欲しくない人もいる」という、しばしば耳にされる俗説のみを意味しない。
沖縄経済の現状
まず大前提として、沖縄が厳しい経済状況に置かれていることは事実だ。
80年代頃まで、沖縄は「共同体社会」として「大阪や東京のような都市部にはなくなった、豊かな共同体がまだ生きていて、相互扶助の論理で暮らしている」と描かれることが多かった。こうしたイメージは現在でも根強く残っており、たとえば上野千鶴子は沖縄について「親族縁者ネットワークが強いから離婚しても、周りのおじいやおばあがお世話やお手伝いをしてくれる」と述べて、
沖縄は他とは違う経済が回っていると思います。贈与経済というか、お金を介さないモノやサービスの循環の占める割合が高いですね。
と語る。こうした沖縄像を乗り越え、新たな知見を提供してきたのが、琉球大学の上間陽子教授や立命館大学の岸政彦教授、和光大学の打越正行講師らの優れた研究だった。彼らの研究は
沖縄社会の共同体的構造に対するロマンティックな一般化を排し、亀裂と多様性を考えるためのひとつのアプローチとして、フィールドワークを通じて、階層とジェンダーから沖縄社会を捉え返すことを構想
したものと言える。
そして、こうした複雑性の背景の1つにあるのが、沖縄の困窮する経済だ。たとえば2019年の沖縄の県民所得は241万円であり過去最高となったものの、全国平均の318万円とは大きな差がある。国民1人あたりの水準を100とした場合、沖縄県は75.8となっており、依然として全国最低水準のままだ。
中でも、子供の相対的貧困率が高いことで知られており、沖縄県の29.9%という数字は、全国平均(13.5%)の約2.2倍にのぼる。他にも母子世帯出現率は全国1位、生活保護率は全国3位、就学援助率は全国2位、高校中退率は全国1位という厳しい状況だ。
また沖縄県の歳入は、地方税の割合が低く(沖縄県22.4%、全国31.7%)、地方交付税や国庫支出金に「大きく依存しており、国の予算の動向や地方財政対策に左右されやすい財政構造」となっている。地方税は自主財源の柱であるため、未だ自立型経済は実現できていない。
なぜ基地問題が経済を規定するのか
厳しい経済状況は、様々な要因から生まれているが、その1つに基地と密接に結びついた沖縄の歴史があることは間違いない。
沖縄は、米国による占拠が続いた1945年から1972年にかけて、本土のような高度経済成長を実現することが出来なかった。国内の産業保護政策が適用されず、基地依存型の経済構造が形成されたため、製造業の発展などが阻害されたためだ。
加えて、1945年から1958年まではアメリカ軍の発行するB円という通貨が流通していたが、このB円のレートも沖縄経済を規定した。当時は固定相場制であり、ドル円相場が1ドル=360円だったのに対して、沖縄では1ドル=120B円が定められ、これによって輸入型経済が確立した。
当時の本土は、安い円相場によって自動車などの製造業に代表される輸出産業が成長し、結果として高度経済成長に至っているが、沖縄はその恩恵を受けることはなかった。むしろ、基地建設のための建築土木業のみが成長するという歪つな経済構造が生まれていき、現在の産業構造にも大きく影響している。沖縄の産業で建設業が占める割合は、2018年時点で全国平均5.4%に対して、13.5%にのぼっている。
政府は、沖縄振興の背景として
- 先の大戦における苛烈な戦禍という歴史的事情
- 東西1,000km、南北400kmの広大な海域に多数の離島が点在し、本土から遠隔された地理的事情
- 国土面積の0.6%の県土に在日米軍専用施設・区域の70.4%が集中し、脆弱な地域経済を持つ社会的事情
を挙げているが、戦後の歴史がその脆弱な地域経済を規定したことは間違いない。
基地依存型経済からの脱却
ただし注意すべきは、現在の沖縄は基地依存型経済から脱却しつつあるということだ。1965年、県民総所得に占める基地関連収入の割合は30%を超えていたが、その7年後には15%まで低減し、1990年には4.9%まで下落した。
県民総所得に占める基地関連収入の割合(沖縄県「沖縄から伝えたい。米軍基地の話。Q&A Book 平成29年版」より)
沖縄県は「米軍基地が整理縮小され、返還後の跡地利用が進めば、県経済に好影響を与える」と考えており、基地がなくなれば経済に悪影響という言説を否定している。
むしろその問題は、前述したように産業における建設土木業への偏重や、製造業の未発展、そして新型コロナ禍でダメージを受けた観光業の回復などにある。特に観光業については、平均滞在日数や観光客1人当たり消費額の伸び悩みがあり、近隣リゾートに比べたブランド力の弱さなども目立っている。
つまり沖縄経済をめぐっては、基地依存型経済のイメージから基地移設の困難を指摘する言説が度々出てくるが、それは不適切であり、むしろその歪な経済構造については、米軍基地を含む日米安保体制に規定された戦後史に注目するべきと言える。
3. 沖縄の歴史的歩み
日米安保体制と「本土優先―沖縄劣後」という構造によって説明される「沖縄に対する構造的差別」だが、その源流を考えるためには、沖縄の歴史にも触れる必要がある。
本土と沖縄、あるいはウチナーとヤマトという構図の中で、歴史的に沖縄が構造的差別に晒されてきたと捉える見方は根強い。たとえば、沖縄にルーツを持つ社民党副党首を努めた照屋寛徳議員は、2015年に以下のように述べている。
今、沖縄では各種選挙で示された民意を無視して、ウチナーとウチナーンチュに対する国家権力を総動員した国策の犠牲強要がおこなわれている。辺野古への巨大な新基地建設強行と東村高江における米軍ヘリパッド建設強行が、その象徴的事例である、と考える。
わが国の近現代史の中で、常に沖縄は国策に翻弄され、その犠牲を強いられてきた。
だが、ウチナーとウチナーンチュは、受忍限度をはるかに超えた犠牲と負担の強要を拒否し、自らの尊厳と自己決定権の回復、アイデンティティーの確立を求めて立ち上がった。
日本政府からの「構造的沖縄差別」の強要に抗い、自決と自立を求める動き(闘い)は、もはや強大な国家意思と国家権力をもってしても、押しとどめることは不可能であろう。かつての主権国家、独立国家である琉球王国の末裔たるウチナーンチュの誇りと尊厳が、それを許さない、のだと信ずる。
沖縄は歴史的に「自己決定権」を持たず、犠牲を強いられ、基地や貧困をめぐる構造的差別を生み出してきた、という認識は、近世以降の沖縄が、薩摩藩や日本政府によって翻弄されてきた歴史を念頭に置いている。
薩摩侵攻から琉球処分
1609年、薩摩藩は琉球王国へ軍事侵攻をおこない、琉球側の全面降伏に至る。琉球王国の尚寧王は、江戸に連行されて第二代将軍・徳川秀忠に面会し、王国の維持こそ許されたものの、実質的には江戸幕府の支配下に組み込まれる。
その後、明治に入った1872年(明治5年)には琉球藩(後に沖縄県)が設置されるなど、琉球処分によって日本の管轄としての法的地位が定められる。当時、琉球は清国(中国)とも関係を結んでいたため、日本による "併合" に琉球側は難色を示したが、日本側は強行。後の日清戦争の原因へと繋がっている。
琉球処分を風刺した1879年5月24日付團團珍聞(團團珍聞, Public domain)
遅れた近代化
近代日本の一部となった沖縄県だが、その法的・社会的整備は本土から大きく遅れていた。たとえば本土で1889年に施行された衆議院議員選挙法が沖縄に適用されたのは1912年だったし、1873年の地租改正は1899年まで待つ必要があった。
ただし、こうした制度的な遅れは「旧慣温存政策」とも呼ばれ、明治政府が
旧琉球王府の支配層の動向に注がれ、その慰撫に努めていたので、「急激な改革は人心を動揺させ、社会不安を招く」ことを理由に、王国時代の諸制度が明治三十年代までそのまま据え置かれた
側面もあった。
いずれにしても、こうした違いが沖縄の経済成長やインフラ整備に影響を与えたことも事実であるし、反対に本土の制度の適合が、沖縄に不満をもたらしたことも事実だった。特に薩摩藩出身で、後に沖縄県知事となった奈良原繁の時代(1892-1908年)、その厳しい県政に沖縄の人々は苦しむこととなり、
琉球処分以来、つぎつぎと押しつけられてきた中央的なものに、混乱と違和感を禁じ得なかった沖縄の人々の間に、ここではっきりと社会的被差別感が定着していったように思われる
と記される。
方言論争
1939年(昭和14年)から1945年の第二次世界大戦は、4人に1人が亡くなる(戦前の沖縄県人口が約49万人に対して、約12万人の戦没者)沖縄戦という凄惨な経験をもたらしたが、その端緒に起こった方言論争に触れる必要がある。
これは、柳宗悦らが沖縄県でおこなわれていた標準語励行を批判し、沖縄県側が反論したことに端を発する。柳らは方言の文化的価値を主張したが、県側は方言の使用によって沖縄県民が差別・不利益を被っていることを指摘し、方言の使用がむしろ県民に劣等感をもたらしているとすら主張した。
標準語励行は、方言を使った子どもに「方言札」をかけ、方言撲滅運動と呼ばれるほどに徹底されたが、方言に対する取り締まりは沖縄戦の最中に苛烈となり、方言を使用した県民は日本軍からスパイとみなされる事態も起こった。
方言論争は、戦争に突入する日本がナショナリズムに覆われ、方言や地方の文化的独自性が軽視されている中で生じた。ひろゆき氏の「沖縄の人って文法通りしゃべれない」発言は、こうした歴史的文脈の中で理解する必要があるだろう。
沖縄戦から米国による統治
壊滅的な被害をもたらした沖縄戦だが、ここにも沖縄に対する本土の眼差しを象徴する背景がある。
沖縄本島に上陸するアメリカ軍海兵隊(National Park Service, Public domain)
そもそも沖縄は「本土決戦のための時間稼ぎとされ、沖縄は“捨て石”」となっていた。本土決戦を主張する陸軍に対して、沖縄を最後の戦いとする海軍の主張もあったため、単純に沖縄が見捨てられたと言うことは出来ないが、沖縄を本土から切り離した見方が主立っていたことは確かだ。
しかし沖縄の苦しみは沖縄戦で終わったわけではなく、米国による直接統治という他にない経験へと進んでいく。明治学院大学の石原俊教授は、
沖縄が日本の総力戦で地上戦に使われて「捨て石」にされ、戦後に日本が独立して復興していくなかで米軍に譲り渡され、第二の「捨て石」にされた
と述べる。1945年、米軍によるニミッツ布告が公布されて、奄美群島以南の南西諸島地域における日本政府の行政権が停止されると、その翌年にはGHQにより正式に、本土と沖縄の行政分離が決定した。
戦後の処遇が沖縄にとって衝撃的であったことは、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効が、屈辱の日と呼ばれていることからも分かる。沖縄が曖昧な地位に置かれたことは、戦略的目的のために沖縄統治を望んだ米国の要請を充たしつつも、沖縄の主権を求める日本の要請を受け入れた「妥協の産物」だったが、日本国憲法が適用されず、人権も保障されない状況に、沖縄の怒りと落胆は高まった。
1947年には昭和天皇も、米国による沖縄に対する「軍事占領の継続を望む」という意向をGHQに伝えていた。この「天皇メッセージ」が、沖縄の切り捨てだったのか潜在的な主権確保を狙っていたのか、天皇の意図は不明だが、少なくとも沖縄にとっては本土との距離を感じる出来事だけが積み重なっていく。
島ぐるみ闘争から本土復帰へ
こうした米国による沖縄統治の中でも、沖縄の本土復帰を目指す動きは続いていた。代表的なものが、1956年の島ぐるみ闘争だ。
これは沖縄県民が、米軍による大規模な土地の収用に反発したもので、米国側はプライス勧告を通じて、土地の半永久的な使用を決定したが、住民や当時の琉球政府が断固たる姿勢を示したことで、最終的に譲歩を引き出した。
島ぐるみ闘争によって復帰運動が再び盛り上がったことで、1960年には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され、本土との格差是正や米軍統治への不満などを訴える声が広がっていく。
また1970年には、コザ暴動も起こった。これは米軍人が起こした交通事故に抗議する動きが広がったものだが、長い米軍統治に伴って生じていた米軍による犯罪行為や沖縄住民の権利の不足に対して抗議する声に繋がり、4,000人以上が集まる騒動になったと言われる。前年の1969年には、すでに佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領によって沖縄返還が明らかにされていたが、同騒動は在沖縄米軍への反発が大きいことを改めて認識させる事件となった。
コザ暴動で焼けた車(Larry Gray, United States Government military member, Public domain)
島ぐるみ闘争から約15年が経過した1972年、本土復帰が実現した。復帰後初代の沖縄県知事となった屋良朝苗は、その式典で以下のように述べている。
さて、沖縄の復帰の日は、疑いもなくここに到来しました。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります。そこには、米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろな問題があり、これらを持ち込んで復帰したわけであります。したがって、私どもにとって、これからもなおきびしさは続き、新しい困難に直面するかもしれません。
復帰後の沖縄は、冒頭で見たように四半世紀に渡る基地移設問題に直面し、新しい困難を予期した屋良の見立ては正しかったと言える。
差異と同化の歴史
こうした歴史が示唆することは、近代以降の沖縄が一貫して本土と異なる存在として扱われてきたことだ。ある地域の文化や歴史の独自性の尊重や異なる制度の適用は、必ずしも差別を意味するわけではないが、その差異が人々に合理的ではない不利益をもたらす場合、それは差別的な扱いとみなされる。沖縄については、琉球処分以降に日本の支配下に組み込まれたものの、その時々で差異を強調するような政治的判断や言説に見舞われてきた。
こうした歴史について、沖縄学研究所の外間守善所長は以下のように評する。
琉球処分にはじまる沖縄の近代は、分島問題、サンフランシスコ条約による沖縄切り捨て、そして現在の軍事基地化にいたるまで、これらすべてが、日本の国益を守るために、歴史の前面に押し出された沖縄島の運命であった。
沖縄について、一方では差異性を強調し、もう一方では同一性を強調する見方は、本土の政治的都合に基づいて都合よく用いられてきたが、同時に沖縄人自身のアイデンティティの問題でもあった。沖縄学の父と称される伊波普猷は、本土と沖縄の同一性に注目しつつも(日琉同祖論)、沖縄文化が豊かに独自性を持ったことを明らかにした。前述した柳や民俗学者の柳田國男などの本土の研究者から、伊波のような沖縄の研究者まで、多くの論者が、沖縄の文化的多様性を明らかにしていくが、こうした議論はいずれも差異性と同質性の間で揺れ動いていた。
東京学芸大学の石井正己教授は、こうした論者を起点として沖縄学が形作られた様子を以下のように表現する。
日本で最初となる地域学が沖縄で始まり、それが返還・復帰の時期だったのは偶然ではない。沖縄学は、日本と世界の中で揺らぐ沖縄の危機意識の中から生まれたのである。
改めて、なぜ辺野古で座り込みをする人がいるのか?
以上、本記事では基地移設問題をめぐる歴史を概観した後、近年のオール沖縄によって争点化したアイデンティティの問題を理解するため、構造的差別として問題化される、1. 基地負担の偏重 2. 経済的な苦境 3. 歴史的歩みという3つのポイントを見てきた。
改めて確認するならば、辺野古の座り込みは一義的には基地移転の反対であり、それらは2016年の埋め立て承認によって政治的には不可逆の流れとなっているが、永田町の政治的論理に翻弄された25年は、沖縄における不信感を強め、事態の混迷化を招いた。一方で沖縄側も、世代間や地域間で基地問題に対する温度感の違いがあるにもかかわらず、アイデンティティを争点化したことで、問題解決を決定的に難しくしてしまった。
しかしながら、こうしたアイデンティティの争点化を一方的に責めることは出来ない。基地移設を考える上で「沖縄に対する構造的な差別」の存在を重視するか否かは別としても、日本の現代史において沖縄のアイデンティティが軽視され、序列化されてきたことは明らかだからだ。
特に、歴史的経緯や政治的妥協の結果として、沖縄は「すでに基地があるところに基地が集中する」という「不正義の連鎖」(熊本博之「名護市辺野古と米軍基地」『持続と変容の沖縄社会』ミネルヴァ書房、2014年)が生じている。こうした状況が本土でほとんど話題にならない背景に、本土と沖縄の差異化があることは間違いないだろう。
アイデンティティの侵害への異議申し立て
2019年の県民投票直後、岩屋毅防衛相(当時)は「沖縄には沖縄の、国には国の民主主義がある」と発言して、政府は埋め立て工事を強行した。沖縄の民意がありながらも、国としては外交安全保障を推し進めていく責任があるという含意だ。しかし東京大学の宇野重規教授は、以下のように述べる。
今日、政治上で争点になることの多くは、負担やリスクをどのように社会的に配分していくかに関わる。基地問題はまさしく日本全体の問題であるが、その負担をどの地域に担わせるかについての決定の正当性は、どれだけ異議申し立ての機会があり、その意見が十分に考慮されたかにかかっている。
こうした視点に立つならば、2013年の埋め立て承認があったとしても、そのアイデンティティの侵害に対する異議申し立ての機会は、十分に開かれるべきだろう。辺野古の座り込みとは、まさに沖縄のアイデンティティが奪われた近現代史に対する異議申し立てであり、そのことを無視したまま、基地移設の是非のみを議論することは出来ないはずだ。
日米安保体制や永田町の論理に規定され続けた沖縄の構造を所与のものとして、基地への賛否のみが問題化されていると認識し続けるならば、なぜ辺野古で座り込みをする人がいるのか?を理解することは出来ない。