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ドラマ『不適切にもほどがある』をどう観るか?バックラッシュか伏線か、なぜ価値観の変化が要請されたのか

公開日 2024年03月05日 19:46,

更新日 2024年03月06日 19:01,

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以前から、各所よりちらほら「ドラマ『不適切にもほどがある』ってどう思いますか?」と聞かれていたので、個人的な所感。

まず前提として、コンテンツは面白い必要がある。その意味で、他人に「このコンテンツをどう思うか?」というコミュニケーションが発生するコンテンツは、無条件に面白いものであると言えるだろう。優れた絵画や小説、あるいはコメディーが優れた批評と共にあるように、優れたドラマもまた、批評や二次解釈、批判的検討によって成立し得る。その意味で、同ドラマは成功したコンテンツであるはずだ。

必要なことは時代状況への解像度

その上で、同ドラマを考えるうえでは1つ抑えておきたい普遍的な論点がある。

TV業界を取り巻く昨今のコンプライアンスをめぐる状況を指して、最近は「過度なコンプラによって、TVはつまらなくなった」という指摘がある。たとえば今年1月に公開された、フジテレビの番組審議会議事録概要には、

  • テレビが行儀の良いことを目指しすぎる動きの中で、テレビ以外の媒体の方が真実だったり、面白いと思われないか、危険性を感じる
  • 人権はもちろん大切だが、人権をうたえばうたう程、テレビだけが宙に浮いてしまって堅苦しい箱になってしまう

などの意見が記されている。すでにネットで、こうした指摘に見られるTV業界の人権意識の低さが批判されていたが、それ以上に自分は、時代状況への解像度が低いことに驚いた。

その時代状況とは、「いまはそういう時代じゃない」という意味での「時代」ではない。むしろ、人権やコンプライアンスを「時代の流れ」から正当化するような考え方は、端的に間違っている。もちろん、時代状況に即したコード(規範)は存在し、そこを捉えられていない言動が問題視されることはあるのだが、コンプライアンスは決して時代に起因して生じているのではなく、「権利をめぐる社会的議論や認識の要請」として生じている。その意味で、コンプラを時代の産物にするのは、端的に不適切だろう。

では、時代状況への解像度とは何だろうか?

それは、何を面白いかと捉えたり、何に驚き、何に感嘆するか、という人々の意識や感覚、感性への理解度だ。この理解度、すなわち解像度がクリアであればあるほど、面白いコンテンツがつくれると考える。具体的に言えば、たとえば「過度なコンプラによって、TVはつまらなくなった」という言説は、あまりにも思考停止であり、繰り返されすぎて面白みが無い。それは、いわゆる "お笑い" としての面白さではなく、知的な驚きや反直観性、心が動かされるほどの感嘆がないという意味での、面白さだ。つまり「空が青い」や「犬が歩いている」と同じように、特に意味を持たない言説であり、そこから何のインプリケーション(示唆)も議論も引き出せないのだ。

もう少し突っ込んで言うならば、「過度なコンプラによって、TVはつまらなくなった」も、その対極にある「コンプライアンスは大事だ」も、ことコンテンツの面白さという観点からは弱々しいだろう。もちろん人権に対する意識が希薄な社会において、その重要性を強調することは、至極当たり前でありながらも繰り返されるべき振る舞いだ。しかし両者の立場は一見すると対立的に見えるが、双方ともに思考停止の産物であるという意味で共通している。

仮にもキー局の番組のあり方を審議する場において、それほど "面白くない" 議論が出てくることに、懸念を抱いた次第だ。

テンプレ化した主張への拒絶

では、何が面白いのか。それは、時代状況への高い解像度を前提とした反直観性だ。たとえばコンプライアンスについて言えば、「過度なコンプラによって、TVはつまらなくなった」や「コンプライアンスは大事だ」といったテンプレ化した主張を排しつつ、その運用が現実的にどのように成功し、時に失敗するかという、微妙なライン上に存在する物語だ。

たとえば「令和はコンプラに縛られすぎている」という言説には何の意外性もなく、単調な居酒屋談義に過ぎない。むしろ私たちがこの社会で実際に直面しているのは、定型化したコンプラの運用が誰かの利害調整に失敗することで、関係者全員が不幸になっている様子や、「コンプラに縛られすぎている」と嘆く人々が、そもそもコンプラ運用への理解が浅いことによって自らが実害を被る様子だ。これをコメディーとして茶化すのか、シリアスな気付きを与える描写にするのかは、ケースバイケースだろうが、そこを描くことが出来るかが作品の成否となるだろう。

逆に言えば、テンプレ化した主張に基づいて「過度なコンプラ社会を揶揄」するような作品や、コンプライアンスの重要性を教科書的にのみ描くような作品であれば、総合的に評価されづらいものとなるだろう。(ただし後述するが、今の社会状況を考えれば、後者よりも前者に陥る懸念はあるだろうし、後者をどのように描くかは十分に主題として成立するだろう)

果たして、この前提を踏まえると、ドラマ『不適切にもほどがある』はどのように観ることが出来るのだろうか?

バックラッシュか伏線か

結論から述べると、本ドラマへの評価は、議論を呼んだシーンや描写が、バックラッシュか伏線なのかによって変わってくるだろう。

たとえば本ドラマを評する言葉として、以下のような指摘がある。

セクハラやパワハラ、モラハラなど関係なく言いたいことを言っていた昭和の男たちは、コンプラ全盛時代を息をひそめて生きている。そんな現代と、エンタメとしての機能を失ったテレビへの痛烈な皮肉が、これでもかと“かまされていく”のがこのドラマの魅力となっている。誰もが息苦しさを感じている今、宮藤官九郎とTBSが思い切ったことをしたのではないだろうか。

これはまさに、本作品を「令和の息苦しい社会を主人公が痛快に切っていく様子」を皮肉的に楽しむものとして捉えている評価だ。この文脈においては、同作は「過度なコンプラ社会を揶揄」するものであり、息苦しい社会へのバックラッシュとして理解できる。

その文脈として理解した場合、当然以下のような危惧が出てくるだろう。

「これまで剥奪されていた権利が、部分的にであれ回復された」ことを「弱者が大きな顔をしだしたせいで、俺達が割を食ってる」とみなすケースは、少なくない。たとえばジェンダー平等や「在日特権」言説などに見られる「逆差別」論は、こうした流れに位置づけられるだろう。

一方でこれに対して、「過度なコンプラ社会への揶揄」と理解できるようなシーンは、最終回に向けての伏線回収であり、「そうした揶揄が出てくること自体への揶揄」というメタ認知を求めているのだ、という反証がある。

少し深堀りして言えば、コンプライアンスは柔軟かつ個別の事情を勘案して運用すべきであるのに、それを硬直的に運用することで問題が悪化していることへの揶揄だ。これもある種のコンプラ揶揄ではあるものの、それに対する典型的なバックラッシュではなく、むしろその価値を認めつつも、その価値を十分に理解していない表面的な運用だからこそ問題が起こる、という方向から揶揄しているという意味で、問題意識は全く別のところにある。

これらを踏まえて、出てくる論点は2つある。1つは、つくり手の "意図" を汲み取るべきか "効果" に注目するべきか?という問題だ。もう1つは、そうしたドラマが生み出す "効果" に配慮しつつ、コンプライアンスという問題を描くことが出来るか?という問題だ。この2つの論点に入る前に、本作をめぐって議論が生じたいくつかのシーンについて確認しておこう。

(以下、一部にネタバレ含む)

議論を呼んだシーン:セクハラのガイドライン

まず1つは、第3話で登場したセクハラをめぐるガイドラインだ。ミュージカル風のシーンで、ハラスメントをめぐって「誰が決めるハラスメント、ガイドライン決めてくれ」と歌う登場人物(山本耕史と八嶋智人演じるキャラクター)に対して、主人公(阿部サダヲ演じる小川市郎)らが「娘に言わないことは言わない、娘にしないことはしない」という "ガイドライン" を提示するような内容だ。

ハラスメントをめぐっては、「想像力 / 思いやりを持とう」や「自分の娘にも同じことをするのか」といった線引きが有効だとする声は少なくない。しかし、これに対しては反論も多いし、筆者も基本的には批判的だ。そもそも人権概念は、想像力が働かない相手にも機能するからこそ有効なのであり、性加害は(その実態が十分に捉えられていないものの)家族や親族、顔見知り間で多発していることが指摘されている。

人権概念は日本であまり浸透しておらず、その意味が難しく、曖昧な部分があるからこそ、「娘にしないことはしない」という分かりやすい線引きが重要だという主張もあるが、個人的には懐疑的だ。神谷悠一が述べるように、「思いやり」も「娘にしないこと」も人によって濃淡が異なる。

「思いやり」は、個々人の「気に入る」「気に入らない」といった恣意性に左右されやすいものであり、不具合が起きてしまうものです。思いやりも人それぞれ、ということになると、そこで保障されることも人それぞれでしょう。そんな普遍性のないものを「人権」と呼べるのでしょうか。

目の前にいる女性を「娘だと思った」上での「思いやり」として、露出の多い服を着ていることを「痴漢に遭うよ」と注意する男性もいるかもしれないが、こうした言動が不適切であることには多くの人も同意するだろう。

議論を呼んだシーン:インティマシーコーディネーター

次に、第4話に登場するインティマシーコーディネーターをめぐる議論だ。インティマシーコーディネーター(IC)は、

映像制作に置いてヌードや性的な描写などのインティマシ―シーンを撮影するにあたって、俳優のみなさんが肉体的、精神的にも安心安全に撮影できるように、かつ監督の意向が最大限発揮できるようサポートするスタッフ

指す。同ドラマでは「インティマシーコーディネーターを通して濡れ場シーンの撮影に細かく抗議してくるが、その口出しが多すぎて…」と評されるシーンで登場した。

これに対しては、以下のように批判が持ち上がっている。

正確に言うならば、当該シーンで「口出しが多すぎ」るのはマネージャーであり、IC ではない。ただし「インティマシー、インティマシー」と連呼され、現場を引っ掻き回す "厄介な存在" として認識され得る存在として描かれたことも事実だ。

実際の IC の仕事については、浅田智穂氏が語るように、撮影前の合意形成や調整など、現場以外の比重も大きい。また X でも指摘されているように、このシーンについては IC の「厄介さ」ではなく、その「厄介さ」を逆手に取って、タレントの意志を無視したマネージャーが、タレントを思い通りに商品のように扱うことの滑稽さ・問題点を描いた可能性もある。しかしこの解釈は、あまりにもハイコンテクスト過ぎるため、IC の存在が認知され始めたばかりの日本において有効であったかは微妙なラインだろう。

議論を呼んだシーン:セクシュアリティの否定

同じく第四話で物議を醸したのが、登場人物である中学生・井上のセクシュアリティについて、異性愛者であることを前提としつつ、それ以外のあり方を否定されるシーンだ。

社会学者の女性(吉田羊演じるサカエ)が、自身の息子に告白する井上に対して、「自分がモテないからって女を軽視してる。女性蔑視、あなたそういうとこある昔から。ミソジニーの属性があるんです、昔から」「そういう男に限ってホモソーシャルとホモセクシャルを混同して、同性愛に救いを求める」と発言する。

実は、このサカエと息子と交際しようとする井上は、サカエにとっては未来のパートナーだ。すなわち、サカエの息子と将来のパートナー(つまり父と息子)が交際してしまえば、息子が生まれなくなるパラドックスが生じる可能性が高い。そのため、自身と家族らの将来を案じつつ、突然の出来事に取り乱したサカエが、フェミニズムやジェンダーに理解が深い社会学者であるにもかかわらず、思わず暴力的な発言をおこなったとも理解できる。造形が深い人であっても "間違える" ことはあるわけで、コンプラやポリコレを教条主義的に受け取ることは望ましくない、というメッセージかもしれない。

一方で、若者のセクシュアリティを否定することが暴力的であることも事実だ。下記ポストでも触れられているように、時代性を考えれば自身のセクシュアリティを隠したまま結婚した人も多いため、そうした点を示唆している可能性もある。いずれにしても、サカエが井上のセクシャリティを "知っていた" から、こうした発言をおこなったと結論づけるのは早計だ。

後述するように、こうした点が最終回に向けての伏線であり、後々回収される可能性は十二分にあるものの、リアルタイムでは非常に危うさを残した描写だったことは間違いない。

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以上のような描写は、いずれもバックラッシュなのか伏線なのかによって、意味が変わってくる可能性はある。

たとえば「娘にしないことはしない」という "ガイドライン" についても、実は主人公との恋愛関係が示唆された女性(仲里依紗演じる犬島渚)が、祖父と孫の関係にあることが明かされていることを踏まえれば、ガイドラインとは別の文脈が出てくる可能性もある。またインティマシーコーディネーターについても、同ドラマ自体に IC が入っていないことの是非が、後から描かれる可能性もある。登場人物のセクシュアリティも同様だ。

こうした点を踏まえれば、連続ドラマの性質上、作品が完結しなければ語ることが出来ない側面も強い。一方、地上波ドラマを「SNS であーだこーだ言いながら楽しむ」という消費の仕方が一般的になった現在において、その完結まで触れられないのも現実に即していない。つまり、現時点ではバックラッシュなのか伏線なのかという結論は出せないものの、多くの人が宮藤官九郎という脚本家に信頼を寄せて、伏線であるだろうと期待している状態なのかもしれない。

"意図" を汲み取るべきか "効果" に注目するべきか?

一方、先に述べたように、つくり手の "意図" を汲み取るべきか "効果" に注目するべきか?という問題と、ドラマが生み出す "効果" に配慮しつつ、コンプライアンスという問題を描くことが出来るか?という問題については、抑えておく必要がある。

まず前者は、つくり手が単なる「コンプラ揶揄」ではなく「コンプライアンスは柔軟かつ個別の事情を勘案して運用すべきであるのに、それを硬直的に運用することで問題が悪化していることへの揶揄」を "意図" していたとしても、それがどのように伝わるかという "効果" の問題がある

たとえばセクハラの加害者が「そのような意図はなかった」と弁明したとしても、それが被害者にどのような "効果" をもたらしたかが問われるように、多くのコンプライアンスの問題においては "効果" への考慮を求められる。

「意味付け」という問題

しばしば炎上する「問題ある女性の描き方」という表象は、小宮友根が指摘するように、現実への悪影響という側面以外にも、「女性の意味付け」に加担するという側面がある。具体的に言えば、女性と家事・子育てなどのケア労働を結びつけたり、女性の身体を性的な対象として扱うことは、性別役割分業やセクハラなどの背景にある「女性の意味づけ」と不可分だと言う。この「女性の意味づけ」とは、「女性は家事をするものである」とか「女性の身体は性的に見ても良い」という、ある種の社会的合意だ。

そうした問題の中で女性に与えられている意味づけが、広告やアニメのような身の周りの表象の中でおこなわれていたら―たとえば家事をしているのがいつも女性だったり、大した必要性もないのに女性の身体が性的に描かれたり単なるアイキャッチとして使われたりしていたら―そうした問題を抑圧的に感じている者にとっては、それらは同種の抑圧として経験されうるだろう。

こうした表象と現実との関係を考えれば、ドラマが生み出す "効果" についても慎重に考えることが出来るだろう。たとえばインティマシーコーディネーターを "厄介な存在" として描いたり、「娘にしないことはしない」ことがガイドラインだと認識させることは、そうした語りや理解を問題だと感じる人にとっては、これまで何度も議論されてきた論点が後戻りするという意味で、不十分な描かれ方だと考える。

つくり手に、そこまで求めるのは酷だという声があるかもしれない。あるいは、ハラスメントやコンプライアンスをめぐる現在地として、こうした議論を喚起しているという意味で、大きな意義があると反論されるかもしれない。しかし、コンプラというキーワードをめぐって時代状況への解像度が求められる時代、こうした文脈を踏まえたコンテンツが求められていることも事実だろう。

"効果" に配慮しつつ作品をつくる

では、ドラマが生み出す "効果" に配慮しつつ、コンプライアンスという問題を作品化することは出来るのだろうか。結論としては、決して不可能ではないだろう。

本ドラマでも繰り返し描かれてきたように、揶揄されるべきコンプラは、コンプライアンスそのものではなく、その運用が硬直的になり、思考停止なままで免罪符や責任回避の材料として使われている状況だ。

"厄介" なのはインティマシーコーディネーターではなく、その存在を利用して、引き続きタレントを商品化(非人格化)することで、自らの論理を押し通そうとするマネージャーの存在や、同じくタレントの意志を諮ることがないまま、その所有者である芸能事務所とのみビジネス上の交渉を進めようとするTV局だ。

その場合、当然想起されるのが対話の重要性だ。旧ジャニーズ問題や松本人志氏をめぐる問題でも、加害者として告発された人物の行為だけでなく、TV局など大手メディアのあり方や商慣習、芸能事務所とタレントの関係性などが論点となった。権力を持つ人物同士での慣習や、それらに配慮した忖度ではなく、関係する人物すべての意志や合意を重視した対話が大事である、という方向へと議論は傾いている。

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しかしながら、この「対話が大事だよね」という結論もまた、表層的なものに終止してしまう危険性を持っている

たとえば本ドラマを受けて、TBS の佐々木卓社長が以下のように述べている。

皮肉が向けられている先は、我々テレビ局の幹部、リーダーなのかなと。コンプラももちろん大事なんですけども、簡単に表現を規制しようと、言葉狩りのようにしてしまうのは私達でもあったりするので。そういう人たちに問題を考えさせようと、ドラマの表現ってなんなんだろう、コンプライアンスってなんなんだろうってことを改めて考えさせようとしている。痛烈な皮肉を浴びているのは僕なのかなと思いながら観ている

このドラマの含意が、表現規制や言葉狩りへの危惧であれば、それは過度なコンプラ社会への揶揄やバックラッシュに繋がってしまう危険性を有している。

もちろん、対話や個人の尊重が重要であることは言うまでもない

そのことを意識しているからこそ、たとえば第6話では、令和のZ世代と昭和のオヤジ世代を登場させるバラエティー番組をめぐって、主人公の娘(河合優実演じる小川純子)が、昭和のオヤジ世代として父親(阿部サダヲ演じる小川市郎)が笑いものにされる状況に怒りを示す。

それに対して、番組プロデューサーが「時代遅れのオヤジ世代を笑いつつ、若者の無知を笑いつつ、双方のカルチャーへの気付きと学びを深めつつ、古い価値観をアップデートさせる」ことが目的と弁明し、娘が「要するに晒し者じゃん、ふざけんなよ、うちの親父を小バカにして良いのはな、娘の私だけなんだよ」と述べる。

この描写を「昭和的価値観への一方的な断罪への批判」と捉えれば、バックラッシュの表出と見えるかもしれないが、価値観の対立が生じた際におこなわれる "相手への揶揄" という行為への怒り = 価値観が異なる者同士の対話の重要性を表している、とも言える。その意味では、どれほど古い価値観を有してる個人であっても、その人格は尊重されるべきであり、その上での対話が重要である、という重要な論点を示している。

「どっちもどっちだよね」への横滑り

ただし、より深堀りするならば「対話が大事だよね」という結論は、「どっちもどっちだよね」や「昭和的価値観にも良いところがあるよね」といった言説に、横滑りしやすい危険性を有している

対話が重要である、相互の人格尊重が大事である、という話は、その結論そのものには疑いがないのだが、ある面では逆差別やバックラッシュと隣り合わせにあることを意識しなくてはならない。

その意味で、第6話のバラエティー番組において、父親への揶揄に怒った娘が、番組プロデューサーに対して「どうせコケにするなら面白くやれよ」と述べたシーンは重要だ。冒頭で述べたように、双方の価値観を笑い者にするだけのコンテンツは面白みがなく、「過度なコンプラによって、TVはつまらなくなった」という思考停止の言説をなぞっているだけだからだ。

ただし同ドラマのつくり手が、この点を意識していたかは難しいところだ。なぜなら、同シーンは「私は今、17歳。まだ何者でもない」「昔話のネタが無い」という、若者が年長者の昔話の意味に気付く、という方向に回収されるからだ。これは結局のところ、年長者のつまらない昔話にも意味があるのだ、という方向性に着地したと捉えられても仕方ないだろう。

なぜコンプラであるのか?なぜハラスメントであるのか?

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それは、一見すると対等に話しているように見える人々が、実はその背景にある隠れた権力構造に捉えられ、全くもって対等ではない関係性に置かれているからだ。

会社の上司や年長者の昔話を「つまらない」と言い切れる人は少ない。取引先の不当な要求を「間違っている」と跳ね除けられる人は少ない。マジョリティが用意した制度を「不当である」と批判できるマイノリティは少ない。だからこそ、思いやりや対話ではなく、制度やルール、規制が必要なのだ。

コンプラやハラスメント、あるいはポリティカル・コレクトネスは、その運用が失敗している局面も少なくないが、根本的にはこの考え方があることを確認する必要がある。

もちろん、その権力性の象徴として見られがちな男性であっても、生きづらさは存在する。

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しかしそれは「おじさんも大変なんだよ、辛さもわかってくれよ」とヨシヨシしてもらう方向からではなく、その辛さを生み出している構造を解き明かしていく方向から検討されるべきだろう。

なぜそのルールが用意されたのか?

このように考えた時、「対話が大事だよね」という結論に達する前に、私たちはなぜそのルールが用意されたかを考える必要がある

コンプランスが厳しい令和(2024年)と昭和(1986年)の間には、平成を含めた38年間がある。およそ40年間が過ぎれば、当然ながら人々の価値観は変化する。主人公が生きていた時代から40年を遡れば、終戦から高度経済成長期までとなり、その間の社会の風景が大きく変化したことも想像に難くない。半世紀近い時間の中で、価値観は一足飛びに変化したわけではなく、様々な逡巡や拮抗、バックラッシュを経て変化が生じたのだ。

たとえば、主人公が暮らしていた1986年の1年前には、男女雇用機会均等法が成立している。その後、育児休業法(1991年)や次世代育成支援対策推進法(2003年)、女性活躍推進法(2015年)、そして男性版育休制度(2022年)のように、子育てや女性の働き方をめぐる制度は、少しずつ変化してきた。それらは、誰かの思いつきの中で登場したわけではなく、第二波フェミニズム以降の社会運動や個人の声、企業や団体からの後押しによって実現した。

もちろん、この時期の「男女平等」は、必ずしも国際的な要請や国内の運動によって生じたわけでなく、女性の労働力を市場に取り込むことを目指した政府や企業からの要請もある。こうしたプロセスを理解することは、なぜ価値観が変化したのか?ではなく、なぜ価値観の変化が要請されたのか?という問いの立て方に繋がる

長い歴史を持つセクハラ概念

たとえばセクハラについて、同ドラマでは「それもハラスメント」「あれもハラスメント」とミュージカルで歌われるが、そもそもセクハラが社会問題化したのは最近のことではない。

1989年には、新語・流行語大賞の新語部門・金賞を「セクシャル・ハラスメント」が受賞しているし、その背景には福岡県の出版社に勤務していた女性が、セクハラを理由として起こした民事裁判がある。1997年には、男女雇用機会均等法の改正によってセクシュアルハラスメントの配慮義務が規定されており、そこから考えても四半世紀以上が経過している。

その間に起こったことは、ある日を境に突然価値観が変化したわけではない。

たとえばセクハラというワードが注目された当初は、明らかな性的言動のみが問題化されてきたが、時代が下るごとに、それ以前に比べたら "些細に" 思われるような発言や行動も問題化されるようになっていく。やがて、権力差の中で生じる断りづらい状況や、女性側が「迎合」した状況も問題化され、今では同意の重要性が確認されている。牟田和恵が

職場でのセクハラ事案は,もともと重要な人間関係の中で生じてくるために,単純な脅かしや強要としてあらわれるのではなく,もっと微妙で複雑な様相を呈するのが通例である

述べるように、そのガイドラインが不在であることそのものが、セクハラという問題を難しくしている所以なのだろう。

#MeToo が要請したインティマシーコーディネーター

また、インティマシーコーディネーターの登場には、#MeToo 運動を抑える必要がある。ワインスタイン問題以降、ハリウッドでは様々な実効的な対策が講じられてきたが、その背景には、作品づくりにおいて監督やプロデューサーの権力が大きいことへの危惧がある。

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IC の登場は、スクリーン上でのヌードや性的倒錯、欲動的なキスさえも禁止したヘイズ・コード(1930年に制定された映画制作における倫理規定)に戻るべきだ、ということを意味しない。むしろそれは、複雑で重要なストーリーを前進させるため、親密なシーンは可能な限りより良いものにする必要がある、ということだ。

セクシュアリティの否定と異性愛至上主義

第三者によるセクシュアリティの否定と異性愛にもとづく序列化は、より複雑な問題だ。

まず「そういう男に限ってホモソーシャルとホモセクシャルを混同して、同性愛に救いを求める」というセリフに登場するホモセクシャルという単語に触れる必要がある。日本の TV業界においては、ホモセクシャル、あるいはホモという用語が、長年に渡って侮蔑的に用いられてきた歴史がある。

たとえば1989年前後には、人気番組「とんねるずのみなさんのおかげです」で、石橋貴明が保毛尾田保毛男というキャラクターを演じ、2017年に同キャラクターが再登場したことで批判を浴びた。再登場では「ゲイの男性へのステレオタイプを笑いのネタにしている」と批判が集まったが、逆に言えば30年間かけて、社会全体の意識は少しずつ変化してきた。その間には、ゲイとHIVが結び付けられる言説が勢いを持ったこともあり、そうしたスティグマの流布にマスコミは大きな影響力を持っていた。

ホモセクシャルという用語や概念を "混同" してきたのは、むしろTV業界そのものであったため、こうした過去に触れないまま、"フェミニストの過ち" とするのは、歴史の改竄感がある。

その上で、この発言をする社会学者でフェミニストのサカエが、「異性からのモテ」を至上の価値観に置いていることも、フェミニズムをめぐる変化を考えれば不自然だ。フェミニストについて「モテない男嫌い」というイメージが持たれていたことは事実だが、第四波フェミニズム(2010年頃に生まれたとされるフェミニズムの潮流)において、エマ・ワトソンやビヨンセなどセレブリティフェミニストが登場したことで、そうした偏見が過去のものであるという認識が広まりつつある。つまり、それまでのフェミニズムに対するバックラッシュとして生まれた「フェミニスト = モテない男嫌い」という構図は、すでに変化している。

そしてより大きな問題は、その文脈において異性愛を当然のものとして、それ以外のセクシャリティのあり方を否定している点だ。異性愛者かホモセクシャルか、という二項対立を超えて、特に1980年代後半から、ヘテロセクシュアル(異性愛者)でもシスジェンダー(性自認と生物学的な性が一致する人)でもない人を総称し、クィアと呼ぶ動きが生まれた。同性愛における様々な差異について「レズビアンとゲイ」と一括りにされる状況が問題視され、クィアをめぐる議論が立ち上がってきたのだ。

現在でも、こうした多様なセクシャリティやジェンダーなどのあり方をめぐって、「最近はLGBTって言うよね」と単純化された見方を向けられることは少なくない。(同ドラマでも、そうした語られ方は少なくなかった)

こうした変化を踏まえないまま、本来であればこうした問題に慎重であるべきなサカエが「ホモセクシャルか異性愛者か」という二項対立を迫っている点は、価値観の変化が要請されたプロセスや議論の蓄積を一切無視した状況だと言える。

加えて、第三者によるセクシャリティの断定をめぐっては、2015年に一橋大学の大学院生がアウティングの被害にあって転落死するなど、その議論と理解が未だ十分な位置にあるとは言えない。これらは、すでに変化した価値観というよりも、いま足元で変化が要請されている価値観だと考えられる。

なぜ価値観の変化が要請されたのか?

このように、なぜ価値観が変化したのか?ではなく、なぜ価値観の変化が要請されたのか?という問いを立てることは、私たちが「対話が大事だよね」という結論に達する前に、押さえておきたいポイントとなる。

「過度なコンプラ」と「思考停止したコンプラ運用」という対立でも、それを乗り越えた先にある「対話が重要である、相互の人格尊重が大事である」という原則論でもなく、なぜ私たちが今ここにいるのか?を考えることが、本ドラマを考える上で最も重要な論点なのではないだろうか。

すでに数多く指摘されているように、特に2010年代以降の宮藤官九郎作品には、家族や地域、震災、死(あるいは生き方)などが、中核的なテーマとして扱われていることが少なくない。本作にも、そうした要素は数多く含まれるが、同時にそれらは人々に、対話や相互理解などを求めることになる。岡室美奈子は、宮藤官九郎がこれまでも男女や生死などの二項対立を乗り越えてきたと指摘し、本作において、昭和と令和をめぐってそうした構造が立ち現れる可能性を示唆する。こうした二項対立を乗り越える上で、対話や相互の人格尊重を重視するような原則論が重要であることは、疑いがないだろう。

しかし、なぜ私たちが今ここにいるのか?という問いを立てた時、そもそも両者を二項対立として捉えるような見方こそが批判的に検討される。なぜなら、私たちの社会が要請してきた価値観の変化は、前述したように「これまで剥奪されていた権利が、部分的にであれ回復された」状況をもたらしているに過ぎないからだ。ここにあるのは「どっちもどっち」論でも「わかり合おう」論でもなく、特定のグループや状況、社会構造に対して変化を要求する動きだ。

社会において、特定のグループやある関係性の片側(たとえば、それまで地位を占めてきた中高年男性)だけに変化を求めることは、時に酷でもあり暴力的でもある。そうした動きによってハレーションが起こることも、容易に想像がつく。にもかかわらず、そうした価値観の変容が求められてきたのはなぜか?という疑問こそが、出発点になる。

終わりに

こうした価値観の変容プロセスを学び、作品に反映させることは、作品を教科書的で、つまらないものに変えてしまうのだろうか?必ずしも、そうではないだろう。

もちろん、こうしたハードルを乗り越えつつ作品としての面白さを保つことが、著しく困難であることは事実だ。しかし、それが困難であることは、必ずしもそれが不可能であることを意味しない。(*)

ポリティカル・コレクトネスが社会を覆うことや加熱することの是非は、これまで『「社会正義」はいつも正しい』や『大衆の狂気』、『傷つきやすいアメリカの大学生たち』などの著作を通じて、日本語圏でも繰り返し、紹介・議論されてきた。こうした著作の個々の主張に賛同するかはさておき、その背景にあるのは、多くの人がポリコレやコンプラのあり方に何らかの疑念を持っているということだ。

その際に、「どっちもどっちだよね」や「昭和的価値観にも良いところがあるよね」といった言説への横滑りを防ぎつつ、ポリコレやコンプラが本来的に目指してきた価値を再確認しつつ、より良い社会を構想するため、エンターテインメントや創作物の力が重要であることは言うまでもない。ドラマ『不適切にもほどがある』は後半戦にかけて、こうした期待と一抹の不安が今まさに向けられている。

(*)本記事では触れないが、こうした試みに同クールで放送されているドラマ『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』が成功しているという見解もある。

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✍🏻 著者
編集長 / 早稲田大学招聘講師
1989年東京都生まれ。2015年、起業した会社を東証一部上場企業に売却後、2020年に本誌立ち上げ。早稲田大学政治学研究科 修士課程修了(政治学)。日テレ系『DayDay.』火曜日コメンテーターの他、『スッキリ』(月曜日)、Abema TV『ABEMAヒルズ』、現代ビジネス、TBS系『サンデー・ジャポン』などでもニュース解説。関心領域は、メディアや政治思想、近代東アジアなど。
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