⏩ 50年以上にわたるアサド政権から解放、市民は歓喜
⏩ 10年以上の内戦で反体制派を弾圧してきた強硬な政権も、特殊な条件が絶妙に揃って崩壊
⏩ 穏健な国家樹立のチャンスを迎えたシリア、課題は?
2024年12月8日(現地時間)、中東・シリアのアサド政権が崩壊した。親子2代にわたり50年以上にわたってシリアを統治してきたアサド一族の追放は、歴史的な出来事と評されている。追放されたバッシャール・アル・アサド大統領は、ロシアに亡命したと見られる。
追放されたバッシャール・アル・アサドは、1971年から2000年まで大統領を務めたハーフィズ・アル・アサドの次男で、父の死後、2000年に大統領に就任した(Kremlin, CC BY 4.0)
反政府勢力は、11月27日にシリア北西部から進攻を開始すると、11月30日には第2の都市アレッポを制圧した。その後南下し、中部の主要都市ハマ、ホムスを立て続けに抑えると、12月8日には首都のダマスカスを掌握した。
反政府勢力は北西部のイドリブ県から攻勢を強めて南下し、12月8日に首都ダマスカスを制圧した(筆者作成 with Datawrapper, CC BY-ND)
反政府勢力が、シリアはアサドの支配から解放されたと宣言すると、市街地では、政権崩壊に歓喜するムードが広がった。さらに、その残忍さから「人間の屠殺場」と呼ばれたサイドナヤ刑務所でも、子どもを含む数千人が解放された。
英・The Guardian の記者はサイドナヤ刑務所内部の様子をレポートした
シリア政府に対する抗議や武装蜂起はこれまでも見られたが、その度にアサド政権は、抗議者を射殺するなど徹底的な弾圧を加えた。2010年から2011年にかけてアラブ世界をかけめぐった民主化運動・アラブの春でさえ、当時のアサドを支配者の座から引き摺り下ろすことはなく、アサドは「クーデターに強い」大統領とさえ言われるようになっていた(*1)。
それにもかかわらず、今回の反政府勢力は攻撃開始からわずか10日あまりでアサド政権を崩壊させた。急転直下の展開は衝撃を持って受け止められ、反政府勢力による「前例のない成功」だとも言われている。反政府勢力でさえ、あまりに容易に攻略できたことに驚いたという。
なぜ、強大な支配を続けていたように思われたシリアの権威主義政権は、2週間足らずで崩壊するに至ったのだろうか。
(*1)クリントン、ブッシュ、オバマ政権で上級外交官を務めたデニス・ロスはアサドについて、「彼は常に、自分は父親の目にかなっていないと感じていたと思う」と語り、「だから、そのことが、彼が自分が強いことを証明したいという欲求につながったのは間違いない」と述べている。
何が起きていたのか?
前提として、シリアは2011年から内戦に突入していた。きっかけは、南部の都市・ダラアで反体制派の落書きをしたとして10代の若者たちが逮捕されたことだった。
2011年、ダラアで「次はあなたの番です、ドクター」という落書きが見られた。アサド大統領は若い頃、ロンドンで眼科医としての訓練を積んでいた。
シリア全土で若者を支援するデモが広がったが、アサド政権はそれらを暴力的に弾圧した。平和なデモに対する銃撃や暴行、化学兵器や樽爆弾の使用、ほとんど形式的な裁判による拘留などが政府によっておこなわれ、数万人から数十万人の民間人が死亡または拘留された。
2011年、シリア治安部隊と狙撃兵が数千人の抗議者に発砲した時の様子
国は内戦状態に陥り、2024年3月時点で約1,670万人が人道支援を必要とするなど、世界最悪とされる難民危機を引き起こした(*2)。
2020年にロシアとトルコの仲介で停戦に至ったことにより、内戦は事実上終了したかのように思われていた。ただ、アメリカや日本を始めとする国々の経済制裁に加え、後述する要因からシリア経済は悪化の一途を辿り、残された市民の不満はくすぶり続けていた。
(*2)干ばつや地震など自然災害の被害を受けて、故郷を追われた人々も少なくない。
経済の低迷と「麻薬国家」への歩み
2010年頃から、シリアの経済状況は悪化し始めた。2011年に約675億ドルだった国内総生産(GDP)は、2021年に約90億ドルにまで落ち込んだ(下図)。10年で GDP が7分の1以下に縮小した計算だ。
シリアの国内総生産(GDP)は、2011年を境に急落している(World Bank, CC BY 4.0)
その背景として、前述した内戦と経済制裁の影響は無視できないが、アサド政権による失策も指摘されている。たとえば、2010年代にシリアを襲った干ばつによる農民層の貧困化、それに伴う都市部への人口流入は、さらなる食料不安と失業率の増加をもたらした。そうした事態の中で、政府は有効な対策を講じられず、長年政権の支持基盤となってきた人々の不満を蓄積させた。
経済が不振にあえぐ中、アサド政権が頼ったのは、カプタゴンという麻薬の製造と密売だった。カプタゴンは中東全域で流通している中毒性の高いアンフェタミンで、世界の供給量の 80% がシリアで生産されている。2023年の調査では、アサド政権はカプタゴンによって、年間約24億ドル(約3,600億円)の利益を得ていると推計された。
2018年、アメリカ軍がシリア南部で押収したカプタゴン(Staff Sgt. Christopher Brown / the United States Army, Public domain)
「麻薬国家」に舵を切ったシリアだが、その取引から得られた利益は、政権に近い有力者のみで独占された(*3)。たとえば、大統領の弟であるマーヘル・アル=アサドが指揮するエリート部隊のシリア軍第4機甲師団は、同国南部でのカプタゴンの生産と輸送に深く関与していたとされる。
マーヘル・アル=アサド(M.naddafl, CC BY-SA 3.0)
このように、強硬に見えたアサド政権に対して、シリア国内では長い間不満が蓄積していたと考えられる。背景として、強権的な弾圧に対する市民の憤りという側面も当然関係しているだろうが、経済政策の失敗や政府の腐敗といった点も、市民には無視できない要素だったと言える。
(*3)カプタゴンは覚醒剤に近いため、シリアを麻薬国家と形容することは厳密に言えば正しくない。
なぜ、アサド政権は急速に崩壊したのか?
以上を踏まえたうえで、アサド政権の立場は想定されたよりも弱かったと言われており、急速な崩壊に至る条件が整っていたとも考えられている。
加えて、後述するような特殊な状況が、反政府勢力にとって追い風になった。アサド政権が急速な崩壊に至った要因は、大きく3つの視点から理解でき、具体的には(1)政権側兵士の離反(2)トルコの容認(3)後ろ盾の喪失があげられる。