今月1日、日本学術会議(学術会議)の新会員について、同会議が推薦した会員候補のうち6名を菅義偉首相が任命しなかったことが、しんぶん赤旗によって報じられた。
これに対して、野党から批判が集まった他、Twitterでは「#日本学術会議への人事介入に抗議する」というハッシュタグで抗議の声が集まり、映画監督・是枝裕和氏などが抗議声明を出す事態となっている。
一方で、フジテレビ報道局解説委員室の平井文夫上席解説委員が、学術会議と日本学士院を混同した上で、「死ぬまで年金をもらえる」と誤った説明をおこなったり、自民党の長島昭久議員が「年間10億円の税金が投じられる日本学術会議の実態」を明らかにすべきと主張するなど、学術会議そのものへの批判も集まっている。
日本学術会議とは何であり、問題の争点はどこにあるのだろうか。
日本学術会議とは何か
日本学術会議は、下記の日本学術会議法にもとづいて存在する内閣府の機関だ。
日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。
現在は、2015年にノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章氏が会長を努めており、210名の会員と約2000名の連携会員によって構成されている。会員の任期は6年で、3年毎に約半数が任命替えされる。
今回、菅首相が任命しなかったのは、この3年毎の任命替えにあわせたもので、はじめての出来事となる。
誰が会員に任命されるのか
学術会議の会員は、現会員・現連携会員によって推薦され、首相がこれを任命する形をとっている。日本学術会議選考委員会によれば、推薦の基準は「優れた研究又は業績がある科学者」であり、会員になると特別職の非常勤国家公務員となる。
繰り返しとなるが、「学術会議で6年働けば、学士院で死ぬまで年金250万円」は誤りだ。BuzzFeedが述べるように、「日本学術会議と日本学士院はそれぞれ独立した異なる組織」であり、「前者が『学者の国会』として政策提言などをする組織で内閣府の管轄にある一方、後者は学術上大きな功績を残した学者の顕彰を目的とした組織で、文部科学省の管轄になる」。
なぜ菅首相は任命しなかったのか?
なぜ菅首相は、6名の研究者を任命しなかったのだろうか。政府は「個別の人事に関することについてコメントは控えたい」と直接的な理由を明らかにしていないものの、いくつかの理由が指摘・推測されている。
前例主義の打破
まず、菅首相自身は内閣記者会のインタビューにおいて「推薦された方をそのまま任命してきた前例を踏襲してよいのか考えてきた」と答えている。菅首相は、自身の就任会見で「悪しき前例主義を打破」すると述べているが、今回の問題においても前例主義と絡めた説明がされている。
しかし「前例主義の打破」とは、その前例が問題を有していることが大前提である。法的根拠があったり、政府解釈が示されてきた手続きを「前例主義を打破するため」という理由で変更することは、そもそも前例主義の打破ではない。
菅首相は「推薦された方をそのまま任命」することを悪しき前例主義と認識している可能性があるが、なぜこれが「悪しき前例」であるのかは不明だ。少なくとも、法にもとづいた公務員の任命を「悪しき前例主義」と括ってしまえば、多くの法的手続きが糾弾されることになってしまう。
「優れた研究又は業績」の欠如
より原理的に考えるならば、学術会議の推薦基準が「優れた研究又は業績がある科学者」であることから、菅首相が6名について「優れた研究又は業績」が欠如していると判断した可能性もある。
しかしながら、これはまずありえない。そもそもこの6名については、数多くの研究実績を有しており、そこに疑いを挟む余地はない。個々の論文や研究に異論がある人もいるかもしれないが、それは6名の高い研究水準とは全く別の話であり、純粋に学術論争の問題だ。NHKがまとめた研究内容や経歴を見ても、それは自明である。
加えて、菅首相に「優れた研究又は業績」を判断する能力はない。なぜなら、学者の能力というのは基本的には研究業績や論文によって判断されるためだ。分野によって個々のプロセスや考え方は異なるものの、基本的には査読(ピアレビュー)を通じておこなわれる。政治家や首相であっても、こうしたシステムの外から、ある学者の能力や業績を判断する力は持ち得ない。
政治的意図
菅首相の判断について、もっとも多く聞かれる説明は、政治的意図があるというものだ。今回、任命が拒否された6名は以下の通りとなっている。
- 小沢隆一、東京慈恵会医科大学(憲法学)
- 岡田正則、早稲田大学(行政法学)
- 松宮孝明、立命館大学(刑事法学)
- 加藤陽子、東京大学(歴史学)
- 芦名定道、京都大学(キリスト教学)
- 宇野重規、東京大学(政治学)
この6名について、例えば毎日新聞は「安全保障関連法や『共謀罪』を創設した改正組織犯罪処罰法を批判してきた学者が複数含まれている」ことを指摘し、政治的意図があるという見解を示唆している。また東京新聞は直接的に、「政府の意に沿わない人物は排除しようとする菅政権の意図が浮かぶ」と解釈している。
とはいえ、現時点で政府が任命拒否の理由を明示していない限りにおいては、この理由についてもあくまで憶測の域を出ない。
政治介入の重要性
しかしながら、政治的意図は別としても、政権が政治介入の重要性を認識していた可能性は高い。それは前回の推薦に際して、105名の候補を決定する前に、それより多い候補の名簿を示すように安倍政権時代の首相官邸が求めていたためだ。
これを報じた朝日新聞によれば、官邸側は「こちらが判断する余地がないのはおかしい。ある程度、任命権者と事前調整するのは当たり前だ」と説明しており、推薦・任命のプロセスにおいて政府を交えた事前調整が必要だと考えていることが分かる。
すなわち、なぜ菅首相は任命しなかったのか?という問いに対しては、
- 菅首相が個人的に「悪しき前例主義」を嫌ったり、「優れた研究又は業績」が欠如していると考えたわけではなく、
- 安倍政権時代から本プロセスに対して「何らかの理由」で政府による介入が必要だと考えていた連続的な動きがあり、
- それが今回の人事において表出した
と解釈することが妥当だろう。
その「何らかの理由」が、安保法制に反対する学者の排除という政治的意図であるか、あるいはより広範に、安倍政権が重視していた「官僚主導から政府(官邸)主導へ」という動きの一環であるかは、現時点では明らかではない。
任命拒否にどのような問題があるのか?
では、こうした任命拒否にどのような問題があるのだろうか。現時点では、いくつかの方向から首相の判断が批判されているが、大きく3つにまとめることができる。
具体的には、憲法違反(学問の自由)に関する批判、政府解釈に関する批判、手続きの正当性に関する批判だ。
憲法違反(学問の自由)
まず、憲法違反、すなわち日本国憲法第23条にある学問の自由の侵害だとする声がある。
任命拒否された6名の1人である立命館大学の松宮孝明教授は、「任命権があるから拒否権があるという理屈はなく、理由もなく拒否するのは憲法違反である」と述べている。また、日本共産党の志位和夫委員長は「今回の任命拒否はまさに日本学術会議法に反し、憲法23条の『学問の自由』を脅かす違憲、違法の行為だといわなければならない」と述べている他、法政大の田中優子総長も「任命拒否は憲法が保障する学問の自由に違反する極めて大きな問題」だと指摘する。
ただし、学問の自由を争点とすることは危ういとの指摘もある。例えば、 ハドソン研究所Japan Chair Fellowの村野将氏は「学問の自由を説くのに、政府に認められるかどうかを争点にしたら、自己矛盾するのでは」と指摘する。
また、東京工業大学の仙石慎太郎准教授も、学問の自由を主張する人々は「日本学術会議での活動も学術活動の一環と捉えている」とした上で、「ここの認識が学者によってかなり異なる」と述べる。東京大学の玉井克哉教授も、「むりやりに憲法論で行こうとするから、そんな理屈になる。ちゃんと根拠法があるんだから、それに照らして適法か違法かを議論しましょう」と指摘する。
学問の自由の侵害や憲法違反という批判は、多くのメディアやネットの主張で見られるものの、任命拒否を批判する人々からも疑義が呈されている状況だ。
政府解釈の変更
過去の政府解釈との整合性を指摘する声もある。1983年の政府答弁では、政府が以下のように述べている。
私どもは、実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右するということは考えておりません。確かに誤解を受けるのは、推薦制という言葉とそれから総理大臣の任命という言葉は結びついているものですから、中身をなかなか御理解できない方は、何か多数推薦されたうちから総理大臣がいい人を選ぶのじゃないか、そういう印象を与えているのじゃないかという感じが最近私もしてまいったのですが、仕組みをよく見ていただけばわかりますように、研連から出していただくのはちょうど二百十名ぴったりを出していただくということにしているわけでございます。それでそれを私の方に上げてまいりましたら、それを形式的に任命行為を行う。この点は、従来の場合には選挙によっていたために任命というのが必要がなかったのですが、こういう形の場合には形式的にはやむを得ません。そういうことで任命制を置いておりますが、これが実質的なものだというふうには私ども理解しておりません。
すなわち過去に政府は、学術会議の会員を任命することは「形式的」なものであり、「総理大臣の任命で会員の任命を左右するということは考えておりません」と明言している。
政府解釈の変更について、例えば宇都宮健児弁護士は「今回の菅義偉首相による日本学術会議が推薦した新会員候補6人の任命拒否がこれまでの政府解釈を無視した違法な決定」だと述べている。また、三浦義隆弁護士は「検察官勤務延長や学術会議会員任命拒否については、法律の心得のある人で延長可能説や裁量的任命説を採る人はほぼいなそう」と指摘する。
こうした批判に対して、加藤勝信官房長官は「憲法との関係を含めて整理した。構造的な仕組みを変更しているわけではない」と述べて、日本学術会議法の解釈変更はしていないという立場を示している。
監督権の行使
また加藤官房長官は「会員の人事などを通じて、一定の監督権を行使することは法律上可能になっている」と述べているが、日本学術会議法には監督権について明記はない。
実際、1983年の内閣法制局による「法律案審議録」の「日本学術会議関係想定問答」には、首相の権限について「指揮監督権を持っていないと考える」と記載されている。
しかし、2018年に内閣府日本学術会議事務局が作成した新たな文書では「推薦の通りに任命すべき義務があるとまでは言えない」とした上で、人事を通じて「一定の監督権を行使することができる」という見解が記されている。しかし、その文書は公開されておらず、政府は「秘密裏に対応を変更する形となったが、解釈変更ではないので非公表としたと主張」している。
監督権を含め、従来の政府解釈が変更されたにもかかわらず、十分な説明責任が果たされていないことを問題視する声は多い。
手続きの正当性
政府解釈の変更とも関係するが、この問題は広く「手続きの正当性」がポイントだとする指摘もある。例えば、神戸大学の木村幹教授は以下のように述べる。
この問題の本来の焦点は、内閣による任命拒否を巡る手続き的な正当性にある。日本学術会議法では、この点について「会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」ものとしており、この内閣総理大臣の「任命」に纏わる権限の範囲について、様々な議論が巻き起こっている。
すなわち、日本学術会議法における「任命」の範囲をどこまで広げて解釈することが可能かが焦点であるという指摘だ。
この点について、たとえば堀新弁護士は「総理に任命拒否の裁量権があるかどうかについて、日本学術会議の存在する意義、役割、目的などから総合的に考えていく必要」があるとした上で「『日本学術会議が推薦した候補者を、内閣総理大臣は原則として拒否することはできず、任命しなければならない』と解釈するのが妥当」だと結論づける。
その根拠としては「総理が自分の裁量で任命を拒否することができることになると、日本学術会議の会員の構成が総理の意向に左右されることになり、本来、総理の指揮監督を受けてはならないはずの日本学術会議が、総理によって実質的に指揮監督されることになってしまうから」という点が挙げられている。
また「任命」について、どのような解釈が取られていたとしても、問題は政府解釈が検証可能な状態にないことだという指摘もある。元厚生労働省の千正康裕氏は「問題は、ルールの範囲内だとしても、プロセスや判断が適切だったかどうかということで、それを最終的に国民が判断できるようにしておくこと」だと述べる。
手続きに論点があると指摘する論者は、立教大学の安藤道人准教授や慶應義塾大学の松沢裕作教授など数多く、日本学術会議も10月2日に公開した要望書において「推薦した会員候補者が任命されない理由を説明いただきたい」と、任命拒否の明確な理由を求めている。
実際、現時点での菅首相をはじめとする政府関係者による発言は、「総合的・俯瞰的観点から」任命権を行使したとする発言に留まっており、6名の任命によって、なぜ学術会議の目的が毀損されるか具体的な説明はない。
民意は全権委任を意味していない
以上のように、大きく3つの方向から批判される任命拒否だが、最も説得力を持っているのは、手続きの正当性に関する批判だろう。
憲法違反はさておき、従来の政府解釈を変更するのであれば政府に説明責任が生じるし、解釈が変わらないと主張するのであれば、過去の「形式的な任命」という説明を否定する論理が必要となる。あるいは、解釈を変えないまま任命権を行使することが可能だとしても、その具体的理由を明らかにしなければ、不透明なプロセスによって恣意的な決定がなされる懸念は払拭されない。
手続きの正当性がなぜ重要であるかは、言うまでもなく、民主主義下の全ての政治家は、国民から全権委任を受けたわけではないからだ。もし仮に、政府解釈の変更が妥当であり、「任命」の範囲に首相による拒否が含まれていたとしても、その理由が明らかでなければ、国民は政治家による決定が妥当性を持っているかを判断できない。
「選挙で選ばれた政治家は何をしてもよく、その決定は常に正しいものである」という考えは、現在の日本社会に蔓延する大きな誤解であり、アカウンタビリティ(説明責任)こそが、民主主義の根幹をなす重要な概念だ。
日本学術会議に問題はないのか?
またこの問題と合わせて、日本学術会議そのものの動きを指摘する向きもある。たとえば、下村博文政調会長が「政治と学術の関係」について党内で議論することを明らかにしている。
この点について明らかなことは、学術会議も問題を抱えており、その中には、内閣府の1機関として議論されるべき論点もあるだろうが、今回の問題とは全く別の話だという事実である。そのため、学術会議そのものの在り方や問題、過去の提言に関する懸念は、本問題とは独立した事象として扱われる必要がある。
この問題はどこに向かっていくか
最後に、この問題はどこに向かっていくのだろうか。現時点では、学術会議が「任命されていない方について、速やかに任命していただきたい」という要望を出しているが、菅首相は「判断の正当性を強調」しており、事態は収束に向かう気配は見えない。
大きく2つのシナリオが考えられ、最も可能性が高いのは政府の主張が押し通されることだろう。自民党の船田元議員や石破茂議員など、党内からも批判が出ているものの、問題の発覚直後も高い支持率を誇っている菅首相が、いま立場を翻すことは考えづらい。
もう1つのシナリオは、検察庁の定年延長問題のように政府が立場を変えて、6名の任命を認めることだ。検察庁の定年延長問題では、#検察庁法改正案に抗議しますというハッシュタグがTwitterなどで話題を集め、今回の学術会議のような動きを見せた。しかし、菅政権の高い支持率や学術会議という機関の特殊性などから、今回の問題が同様の経緯をたどる可能性は、決して高くないだろう。
とはいえ、今後の抗議の広がりや党内からの懸念によって、状況が変わる可能性は十分にある。
筆者は、安倍政権の評価について、経済や外交・安全保障などで高い支持率を誇ったが、モリカケ問題や桜、定年延長など主要な政策とは異なる部分で国民からの信頼を毀損したと主張した。菅政権はスタートしたばかりで、主要な政策について実績が出ていない段階にあり、安倍政権ほどの安定感は見られない。開始早々、本来であれば直面する必要のなかったスキャンダルを引き起こしたことで、政権にとっては早くも打撃となる可能性もある。