現代では日本の「伝統」とされている夫婦同姓だが、江戸時代までは伝統的に夫婦別姓が用いられていた。また、その慣習を踏襲するかたちで、明治初期にも夫婦別姓を原則とする指令が発布されている。
それではなぜ、日本ではその後、夫婦同姓が制度化されたのだろうか。その転換点を探るべく、夫婦同姓が義務化されるまでの経緯を取り上げることとしたい。
1898年:夫婦同姓の義務化
夫婦同姓が義務化されたのは、苗字義務化から約20年後にあたる、1898年(明治31年)に施行された明治民法だ。この民法のもとでは、家族法の中心に家制度があった。
家制度は、制度・イデオロギー的に国家権力の支柱的な役割を果たしており、戸籍制度とも密接不可分である。そして、夫婦同姓の義務化は、家制度の確立の過程で定められていくこととなった。その経緯を順に追っていこう。
家制度とは
家制度とは、家族の長である戸主(夫)が強い権限を持って家族を統率し、家族のメンバーは戸主の命令・監督に従い、戸主の地位を家督相続として長男が継ぐ制度である。
家制度は明治政府にとって、多くの役割を果たした。
まずひとつは、①政府の政治権力の安定だ。明治維新後、自由民権運動や、没落士族・農民・商工業者による反政府運動が全国に広がっていた。明治政府はこれを弾圧するとともに、儒教的な家族道徳による教育政策を採用して、国民の統治を図った。
つまり、「君(天皇)に仕える忠」と「親に仕える孝」という「忠・考」を道徳教育の基本原理としたのである。
このような教育政策にとって、家制度は都合がいい。なぜなら、戸主の権限に家族が服従することと同様に、戸主と家族の関係を天皇制国家における天皇と臣民の服従の関係になぞらえることができるからだ。このようにして、国民の道徳規範として忠孝の論理を定着させた。
また、②社会保障の代替としての作用もあった。家制度のもとでは、男性は一家の長である戸主が家族に対する扶養義務を負う。その一方で、女性は結婚によって夫の家に入り、良妻賢母として夫や夫の両親の世話に努め、家業を手伝い、家の跡継ぎを産み育てることが求められた。疾病、失業、貧困の救済は家による相互扶助体制に委ねられ、政府による支出を抑えることに貢献していた。
さらに、③家族的経営による労働力確保という側面もある。家における戸主と家族という身分関係を、雇用主と労働者の関係になぞらえ、家族の労働力を家業に統制・集中させることで、資本不足の当時の日本経済を支える役割を担った。
妻の権利の制限
一方で、家長に権限を集中させるために、家長以外の家族メンバー、特に結婚した女性(妻)の権利が大きく制限されていたことも指摘しておく必要がある。明治民法には、結婚によって「妻は夫の家に入る」と明記されており、さらに、妻は夫の家の姓を称すること、夫と同居する義務を追うこと、妻の財産は夫が管理し、妻の経済行為には夫の許可が必要であること(妻の法的無能力)、子に対する親権は父のみに認められることなどが規定されていた。
また、妻には厳格な貞操義務が課され、不貞行為は離婚理由となるだけでなく、姦通罪として刑事罰を受けた。他方で、夫は相手が未婚の女性であれば、姦通罪に問われることもなく、離婚理由としても認められない(貞操の二重基準)。このように、家制度のもとでの結婚は、家を存続させることに重きが置かれており、特に女性にとって差別的な法制度であった。