日本では、明治初期まで慣習的に夫婦別姓が用いられていた。第2回で確認したとおり、その転換点となったのが、1898年(明治31年)の明治民法だ。明治民法のもとでは家族法の中心に家制度が置かれ、その思想に則って、夫婦同姓の原則が定められた。
しかし、1945年、日本はポツダム宣言の受諾によって敗戦を迎え、民主化の義務を負うこととなる。家族法についても例外ではなく、封建的な家制度が大きく改められることとなった。
このような経緯がある中、戦後改革により定められた現在の民法において、夫婦間の姓の扱いはどのように変化したのだろうか?
1947年:戦後改革と家制度の廃止
1947年(昭和22年)、日本国憲法の制定に伴う民法改正により、家制度が廃止された。しかし、現在の日本の法制度にあるように、夫婦同姓の原則は維持されている(民法750条、戸籍法74条、14条1項)。
なぜ、制度上の「家」が廃止されたにもかかわらず、その単位を表す姓が残り、なおかつ同氏強制の制度が採用されたのだろうか。まずは戦後改革における家制度の行方、そしてその結果としての夫婦の姓にまつわる議論を見ていこう。
家制度の廃止
第二次世界大戦後、1946年に成立した日本国憲法で、婚姻・離婚・家族に関する法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に基づいて制定されることが示された(日本国憲法第24条)。戸主と家族、夫と妻、男性と女性それぞれの間で不平等な規定を置いていた明治民法の家族法は全面改正され、①家制度の廃止②夫婦同権が実現した。
まず①家制度の廃止については、家族について「夫と妻、親と子、親族相互の個人と個人の権利義務関係」として規定し、個人という単位を基礎として置いた。これによって、長子単独相続、戸主権、妻の法的無能力、姦通罪、父親の単独親権など、家制度を支えた規定が撤廃された。
②夫婦同権については、民法は、男女・夫婦の平等を前提として、両性の合意によって家族に関する様々な事柄を決定し、必要な場合には家庭裁判所が援助する仕組みを採用している。これにより、夫婦の姓も当事者間の合意で決定されることとなった。
家族単位登録の維持
しかし、家制度の廃止には不徹底な面も残っている。その理由は、家制度が戦前の天皇制国家の支配体制における支柱となっており、制度の廃止に保守派からの強い抵抗があったこと、家制度が長い間、国民の規範として家族のあり方を示す機能を果たしており、人々の意識に強く根付いていたことだ。
この不徹底の最たるものが、姓および戸籍にまつわる制度である。
戸籍制度の改革では、登記簿の登録単位を個人とするか家族とするかで相当の議論があったが、結果的に、個人単位の身分登録制度は採用されず、家族単位の戸籍による国民把握は維持された。そして家族単位の身分登録ということから、必然的に親子同姓・夫婦同姓の原則が採用されている。
また記載順序の定めも置かれ、婚姻によって新戸籍を編成する場合には、夫婦のうち、婚姻後に称する姓を持つ側の者を戸籍筆頭者にすることとなった。さらに、父母との続柄について、「長男」、「長女」という家族の序列化や優劣を思わせる記載を残存させた。つまり、婚姻後に一般的に夫の姓が採用されることを考えれば、夫が戸籍筆頭者となる傾向が強く、戦前の家制度の意識は、人々の間で維持・強化されていく。
この決定の経緯について、改正時の立法者の一人である我妻栄は、家制度が廃止されても、家族が現実に共同生活を営むことは変わらないとし、「氏を同じくするか、しないかということが現実の共同生活が一緒になる、ならぬというところを抑える一つの拠り所にしようという風に考えている訳であります」と説明している。この発言には、戦前に戸籍が果たした家族統制機能について、戦後も存続させる意図があったことが示唆されている。
他方、こうした方針を批判する立場もあり、民法改正案を研究する学者のグループの中には、「個人の尊厳」や「両性の平等」という思想に基づいておらず、市民の間に根強く残っている家制度的な考え方を維持・強化するような制度を採用するべきではないと主張するものもあった。しかしながらこれは受け入れられず、今も続く「夫婦及びこれと氏を同じくする子」を単位として戸籍が編成されることとなった。
1948年:改正された民法の施行
また、高度経済成長期に入るまで、戦前からの戸籍が再編成されなかったことも、家意識の温存につながった。