今月1日、ミャンマー国軍がクーデターを起こし、アウンサンスーチー国家顧問や与党・国民民主連盟(NLD)の幹部が拘束された。ミャンマー共和国は、1962年の軍事クーデターから長きにわたって軍事政権が続いていたが、2011年に民主的な政権への移行が進められ、アウンサンスーチーが実質的な指導者となっていた。
しかし近年では、ロヒンギャ問題などからアウンサンスーチーへの国際的な非難が強まっており、ノーベル平和賞の取り消しを求める声も強まっている。ロヒンギャ問題では、アウンサンスーチーと同氏を拘束した国軍は近しい立場を取っており、こうした点からも複雑なミャンマー情勢を理解しづらくさせている。
今回のクーデターはなぜ起きて、どのような背景を持っているのだろうか?そして、アウンサンスーチーはどのような人物なのだろうか?
ミャンマーの歴史
アウンサンスーチーと軍部の関係を理解するためには、ミャンマーの歴史を紐解く必要がある。
同国の歴史は、日本とも関係が深い。もともとビルマという名称だったこの国を1942年から1945年まで統治していたのは、大日本帝国だった。
日本軍は1941年、それまでビルマを植民地支配していた大英帝国から同国を解放する名目で、ビルマへの侵攻を進める。英国からの独立を求めて日本軍に協力的であったビルマ独立義勇軍と関係を結び、タイから北上した日本軍は、英国軍や中国軍を退却させて、首都ラングーンを陥落させる。
この結果、独立運動家バー・モウを元首としたビルマ国が生まれる。しかし同国は国民からの支持や外交的承認を得ることはできず、抗日運動が続いていく。日本軍の敗戦が濃厚となった1945年、ビルマ国で国防相を努めていたアウンサン将軍が、クーデターを起こして英国側につき、英国などの連合国軍がビルマを奪還した。
このアウンサン将軍が、アウンサンスーチーの父である。
アウンサン将軍(Unknown author, Public domain)
ビルマは再び英国領となるが、アウンサンは反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)総裁に就任して、ビルマ独立に向けて英国との交渉を進める。
1947年、アウンサンは英国政府と1年以内の独立を約束した協定を結ぶものの、翌年に暗殺されてしまう。彼は建国の父として国民から敬愛されたが、その独立を目前に見ることができなかった。初代ビルマ連邦の首相にはウー・ヌが就任したが、国内は様々な民族の思惑や、中国との関係などから混乱が続いていた。
軍事政権の樹立
こうした背景から1962年、ネ・ウィンによる軍事クーデターが起こり、軍事政権が樹立する。この時、ネ・ウィンが指揮していたビルマ国軍は、ビルマ独立義勇軍の流れを汲んでおり、現在のミャンマー軍へと繋がっている。
ここから1980年代にかけて、ビルマは「ビルマ式社会主義」と呼ばれる独自の政策を取っていく。ネ・ウィンは、連邦革命評議会議長を経て大統領となり、1988年まで指導者を務めた。
「ビルマ式社会主義」とは、仏教が盛んなビルマにおいて、マルクス主義の影響は認めつつも、仏教の原則に基づく社会主義政策を目指す考えで、ビルマ社会主義計画党による一党独裁や、店舗の国営化などが実施されていく。アメリカや東南アジア諸国など限られた国としか外交関係を結ばず、貿易額も大きく減少した。
ネ・ウィンは、中国の毛沢東やロシアのヨシフ・スターリンのように、先頭に立ち苛烈な政治を進めるカリスマ的な独裁者ではなかったが、大規模な粛清も起こり、経済の行き詰まりも深刻化したことから、1988年には、ついに8888民主化運動と呼ばれる民主化運動がおこった。