現地時間6月1日、ジョー・バイデン米大統領は米国オクラホマ州タルサを訪れ、タルサ人種虐殺を追悼した。この事件は、100年前の1921年5月31日に黒人コミュニティー(*1)が破壊され、およそ300人が虐殺された「米国史上最悪の人種差別的暴力」の1つだ。
米国の現職大統領として、初めて追悼のためタルサを訪れたバイデン大統領は「あまりにも長い間、ここで起こった歴史は沈黙を強いられてきた」と述べた上で「暗闇は多くのことを隠すことができるが、何も消し去ることはできない」と語って、事件の全容を明らかにすると約束した。
一体、タルサ人種虐殺とは何であり、なぜ長い間歴史から消し去られていたのだろうか?
(*1)後述する「ブラック・ウォールストリート」の呼称などもあり、本稿では文脈に応じて「黒人」と「アフリカ系米国人」を使い分けていく。
タルサの歴史
タルサは、アメリカ合衆国南中部にあるオクラホマ州の2番目に大きな都市だ。40万人ほどが住んでおり、1901年に油田が発見されてからは石油や化学工業などが栄えた街としても知られている。最近では、テスラの工場誘致をめぐってオースティン市と競争・敗北したことでも話題となった。
オクラホマ州タルサ市の位置(Google Map)
タルサはもともと「インディアン準州」と呼ばれる米国の先住民(ネイティブ・アメリカン)が住むエリアだった。しかし1901年、近郊のレッドホークと呼ばれる地域で油田が発見されてからは、小さな辺境の町から新興都市へと発展を続ける。
それまで人口7,000人程度だった町は、1920年までに7万2,000人にまで急増して、「世界の石油の首都」と呼ばれるまでになった。
1908年のタルサ(Tulsa Historical Society & Museum, Public Domain)
石油と並んで、20世紀初頭のタルサを形作っていたのが、活気あふれる黒人コミュニティだ。タルサのグリーンウッド地区は、ミシシッピ州から逃れてきたアフリカ系米国人などが多く集まり、事業を興していった。
ブラック・ウォールストリート
アフリカ系米国人などの流入が続いた結果、1万人もの住人と食料品店、ホテル、ナイトクラブ、ビリヤードホール、劇場、診療所、教会などが立ち並ぶ、活気あふれる町並みが生まれた。
この地区はブラック・ウォールストリートと呼ばれ、病院や不動産業、弁護士事務所だけでなく、独自の新聞社や学校が出来るほど充実したコミュニティとなった。当時は人種隔離政策(ジム・クロウ法)によって黒人居住者による白人地区での買い物が禁じられており、黒人たちは自らのコミュニティを活発化させたいと考えて、グリーンウッド地区での経済活動を盛んに推し進めた。
また、グリーンウッドの名付け親であるO.W.ガーリーのような裕福な黒人地主は、積極的に土地を購入した上で、黒人起業家たちに資金を貸し付けた。こうしてグリーンウッドは「自己完結型のコミュニティ」となり、人種主義に苦しむ黒人にとって、有数の裕福なコミュニティとして繁栄した。
タルサ人種虐殺
しかし、一夜にしてブラック・ウォールストリートに壊滅的な打撃を与える事件が起こった。それがタルサ人種虐殺だ。