前回の冒頭部分で述べたように、ウクライナは歴史的にロシアと深い関係を持ってきた。そのことを理解するため、以下では2回に渡ってウクライナの歴史を時代ごとに概観していく。
今回は、キエフ大公国の誕生からコサック国家、ポーランド・リトアニア共和国による支配までだ。これらは現代ウクライナから遠く離れた出来事に思われるかも知れないが、同国のアイデンティティを理解する上で、重要な出来事ばかりとなっている。プーチン大統領は「ロシアとの一体性」を強調しているが、本記事を通じて、歴史的に「ウクライナ」というアイデンティティがどのように生まれてきたのかを理解することが出来るだろう。
境界地域としてのウクライナ
「ウクライナ」という語の由来は「国境地帯」あるいは「境界地域」にあると言われる。16世紀頃、ポーランド王国(1025 - 1569年)とクリミア・タタール人が暮らす地域の境界地域を「ウクライナ」と呼び始めたことから、この名前が定着したとされる。
この語源には諸説あるものの、歴史的にウクライナが、複数勢力や国家による境界地域となってきたことは事実だ。
一般的に、国家や民族の境界地域では紛争や政治的緊張が発生しやすい。ウクライナの歴史もまた、境界地域としての苦悩を反映しており、その歴史は度重なる侵攻や他勢力による支配、独立を目指した戦いの連続でもあった。そのことを念頭に置きながら、同国の歴史を見ていこう。
リューリク朝の誕生(800年頃)
ウクライナという名前が定着する前、この地域はスキタイ王国(紀元前8世紀 - 紀元前3世紀)の一部であり、その後はアント人が暮らす地域(5-6世紀頃)や遊牧国家の大ブルガリア(632 - 668年)の一部になったこともある。しかしウクライナにとって、その歴史的起源として知られている最も大きな出来事は、リューリク朝の誕生だ。
9世紀後半、日本で言えば平安時代前期、現在の首都・キーウの名前を冠したキエフ大公国という大国が誕生する。そのキエフ大公国を生み出し、ウクライナの礎を築いたのがリューリク朝だ。
キーウの誕生とリューリク
リューリク朝の起源については、多くが『ルーシ年代記』の伝承に基づいている。『ルーシ年代記』は、800年後半から1110年までのキエフ大公国の歴史を記した年代記であり、歴史的信憑性が疑わしい記述も多い。しかし、東スラブ人の歴史を知るためのほぼ唯一の情報源として、多くの歴史家によって研究されてきた。
それによると現在の首都キーウは、5世紀末から6世紀頃にキーイ、シチェク、ホリフという3兄弟および妹リービジによって生まれた都市だった。長兄であるキーイの名前から「キーウ」という都市名が付けられたとされ、現在に至るまで数々の歴史的舞台となってきた都市の誕生だ。
その後キーウには、キーイらの一族である「ポリャーネ族」と呼ばれる東スラヴ人の部族が暮らしていたものの、彼らは遊牧民族ハザールの支配下にあった。ハザールは謎の多い民族だが、現在のシベリアから中央アジア、東欧にまで分布するチュルク系民族だったと考えられている。
時代が下った800年代後半(9世紀、日本は平安時代前期)、ロシアの都市ノヴゴロド周辺を支配したリューリクという公が、キーウ周辺に勢力を伸ばしていく。ここから、リューリクの名前を冠した公朝(王ではなく公による支配のため、公朝と呼ぶ)リューリク朝が誕生する。
リューリク(Unknown author, Public Domain)
リューリク朝は、キエフ大公国から後述するハールィチ・ヴォルィーニ大公国に連なっており、中世から近世にかけてのウクライナは彼らによって統治されていた。