前回記事では、NATOの目的やその変遷を見てきた。では、こうしたNATOの組織や役割の変遷を踏まえて、ロシアはそれをどのように脅威として捉え、いわゆる「東方拡大」を否定してきたのだろうか?
協調と警戒
前回記事でも触れたように、NATOとロシアの関係は協調的な側面もあり、常に単純な敵対関係にあったわけではない。
例としては、1994年の平和のためのパートナーシップ策定や、97年のNATO・ロシア基本議定書、NATOのアフガニスタン介入に対する支持などがあげられる。2013年には、NATOとロシアが合同で、シリアの化学兵器廃棄任務を実施する姿勢(*1)を見せるなど、両者は長年にわたって協調関係を築いてきた。
(*1)ただし、この化学兵器廃棄の共同任務は、ロシアがシリア内戦に本格的に介入した2015年以前の出来事だった。具体的には国連の要請を受け、廃棄に関する枠組みが米ロ間で合意された。両国はシリア情勢をめぐって支援勢力の違いから対立していたが、シリアが兵器の廃棄に応じない際の対応として、「安保理が国連憲章7章に基づく措置をとる」と定めたことで、両国による独自の介入を一時的に回避できる利点があった。
ロシアによるNATOへの警戒
しかし同時に、ロシアがNATOの存在を警戒し続けてきたことも事実だ。
ハーバード大学教授で、国際関係を専門とするステフェン・ウォルト氏は、NATOとロシアのそうした関係は、「安全保障のディレンマ」によって概ね説明できると指摘する。
「安全保障のディレンマ」とは、ある国家が自国の安全保障を高めることで他国の安全保障が低下し、その結果として他国の軍事力の強化を招き、かえって自国の安全保障上の脅威が増してしまう状況を指す。(久米郁男ら『補訂版 政治学』有斐閣、2011年、p156)
具体的には、東京大学専任講師でロシアの軍事・安全保障政策を専門とする小泉悠氏は、NATOの加盟国増加、活動範囲の拡大(グローバル化)、そして軍事力の強化がロシアの軍事戦略上の脅威となったことを指摘する。NATOの東方拡大は、ロシアがNATO加盟国との間に広大な空間を保持することを難しくさせ、有事の際により有利な対応を取る時間的余裕を奪うことになり、安全保障上の脅威を認識させたという。
また軍事力の強化については、カーネギー・モスクワ・センター元研究員で安全保障を専門とするアレクセイ・アルバトフ氏が、NATOにおける軍事力のハイテク化が、ロシアの安全保障上の脅威になったことを指摘する。
冷戦後のNATOは、伝統的な抑止力としての核兵器だけでなく、ミサイル誘導技術や情報通信技術、ステルス技術を発展させてきた。こうした新技術は、ユーゴスラヴィアへの空爆(1999年)やイラク戦争(2003年~)で重要な役割を果たし、西側諸国の勝利をもたらした。こうした軍事力のハイテク化が、ロシアが通常戦力によって西側諸国に対抗できない可能性を高め、NATOへの警戒と軍事力・戦略の強化と繋がった、という論理だ。
こうした指摘は、ロシアはNATOとその東方拡大を警戒していた蓋然性が高いことを示唆する。
ロシアによる東方拡大への批判
実際、NATOの拡大が始まる1999年前後(チェコ、ハンガリー、ポーランドの加盟)には、ロシアとNATO双方から、その拡大が安全保障を損なうという批判や懸念が示されていた。
たとえば、1993年頃からNATOにおける一部の学術オブザーバーは、NATOが新たな加盟国を承認することは、ロシアとの緊張を高め、冷戦終結以来の前向きな安全保障環境が損なわれることを懸念していた。
また米国の「封じ込め政策」など冷戦初期の外交政策を主導したジョージ・ケナン氏は、NATOの東方拡大を「新たな冷戦の始まり」と非難した他、「NATOの信頼性と能力を最大化しつつ、ロシアとの敵対やその正当な利益を脅かすことを可能な限り少なくするべき」という批判も拡大当初からなされてきた。
そして2007年頃からは、ロシアもNATOの東方拡大への非難を強めはじめ、2014年のクリミア半島併合時にも、事態の一因がNATO拡大にあったと明言されている。また昨年12月におこなわれたプーチン大統領の会見でも、さらなる加盟国の増加(ウクライナやジョージアの加盟)を止めるよう要求(*2)がなされた。
(*2) 2月の拡大停止要求では、中国も名を連ねている。
東方拡大は「脅威」なのか?
しかし、こうした「NATOの東方拡大がロシアの脅威となった」という論理の扱いには、一定の留保も必要だ。
というのも、防衛研究所の山添博史氏が指摘するように「これまでのプーチン政権の「NATO 拡大脅威」論は、真実が含まれるとしても、虚偽も含まれており、 その範囲の変動を確認」する必要があるからだ。
つまり、東方拡大に対する警戒は歴史的に存在してきたものの、それがロシアによる軍事行動を決定づけたかは慎重に吟味する必要がある、ということだ。