三浦瑠麗氏(と松本人志氏)のCM出演をきっかけに、アマゾンプライム解約運動が巻き起こっている。問題の発端は、三浦氏が徴兵制の導入を主張し、安倍政権にも近いからだとされる。こうした徴兵制導入をめぐる問題の一方で、査読論文の掲載がないという三浦氏が「国際政治学者」を名乗る資格すらないといった議論も数多く目にする。本稿では、これらの問題を特に後者の問題を中心にまとめてみたいと思う。
ちなみに、筆者は、おそらく日本人で唯一徴兵制に関する計量的な実証研究の成果を報告しており[2](日本語・英語両論文は査読前だが、複数の学会等では報告済である)、学会誌掲載の査読論文が3本以上はあり、それ以外に書き散らしたものを含めれば10本以上書いているので、論じても「資格」の点からは、そこまで文句をいわれないと思う[3]。
解約運動の是非
まず、アマゾンプライム解約運動に関しては、個人的に少しやり過ぎだと考えている。というのは、たとえば、原発事故の際に東芝、日立、三菱といった原発メーカー製品の不買運動が起こったような場合とは異なり、今回は一個人の言論に対しての抗議であり、それならば、基本的には言論で争えば良いと考えるからである。
これが過度なヘイトスピーチなど、法に抵触するような場合であれば話は異なると思われるが(あるいは、ドイツでナチスを礼賛するような発言)、あくまで徴兵制の導入という政治的な主張に対しての抗議であれば、わざわざ言論以外の手段をとるのは、やや行き過ぎているように感じる[4]。
こうした威圧は、リベラルの原則、もっというと、ヴォルテールの考えをまとめたとされる「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という表現の自由の原則に反しているように思われる。この意味では、筆者は、たとえば、神庭亮介氏と共通の認識にある[5]。
研究内容や研究上の問題
さて、三浦氏のCM出演は一応擁護するとして、学者の資格問題はどうだろうか。私は、Twitter界隈で多く見られる、三浦氏に査読論文の学会誌掲載がないため、学者とは見なせないという主張も言い過ぎではないかと思っている。三浦氏は、学部こそ農学部を出ているものの[6]、少なくとも日本学術振興会の特別研究員として過去に採用されており[7]、東京大学大学院法学政治学研究科総合法政専攻博士課程にて法学の博士号を取得しているため[8]、学者といえないとまではいえないだろう。
しかし、問題はここからである。筆者は、三浦氏が学者という肩書なのは良いとして、具体的な研究内容においては、疑いをもっている。
今回の問題と直接関係する『21世紀の戦争と平和―徴兵制はなぜ再び必要とされているのか―』(新潮社)を検討してみる。この著作は、思想家のカントに遡り、そこから一般的に国際政治において導き出されるデモクラティック・ピース論(民主的平和論)、すなわち、民主主義国家同士は戦争をしない(カントの時代は共和主義)というテーゼではなく、同じくカントに遡れる徴兵制(国民皆兵制)の観点から国際紛争の抑止を分析し、平和のための徴兵制の導入を唱えている。
ざっとこのようにまとめられるこの著作は、われわれの研究とも直接関係するため、比較的詳しく読んだつもりだが、われわれが参照しているような徴兵制にまつわる海外の有力な実証研究のほぼすべてが参照されていなかったように記憶している[9]。これは大きな問題のように思われる。というのも、徴兵制と平和の問題が先行研究で論じられていないかのように扱えば、自身の研究のオリジナリティが主張でき、研究内容によっては大きな貢献だと誇張もできてしまうからである。
しかし、そうした問題は、すでに海外のトップレベルのジャーナルで議論されており、しかも、思想的にだけではなく、データ的な根拠を用いて実証的な分析が行われている。現実への含意を打ち出すのであれば、これらを参照しないのは不自然である。基本的に先行研究と全く異なった新しい大きな発見をする研究は極めて稀である。われわれの研究もそうだが、先行研究の蓄積があった上で、ここが先行研究とは異なる、あるいはここが異なる新しい貢献である、と逐一明記してようやく差異化や独自性が見出されるのである。
こうした観点からすれば、先行研究を十分に踏まえているように思えない三浦氏の記述には疑念が残らざるを得ない。同じように徴兵制を主張している法哲学者の井上達夫氏などと異なり、「国際政治学者」として発信するのであれば、そのあたりは押さえてしかるべきだったのではないかという感は拭えない。つまり、筆者から見れば、三浦氏が仮に批判されるべき対象なのだとしたら、徴兵制の主張などではなく、その学問的な手法や態度においてであるように思われる。
仮に、この著作の内容が論文として査読誌に投稿された場合、査読者が先行研究を把握している限り、まず以上のような点が指摘されてリジェクト(掲載不可)される可能性が高いだろう。少なからぬ実証的な先行研究があるにもかかわらず、それらを参照せずに、いくつかの国の事例を用いただけで、新たな先行研究に対する貢献があるとは思えないからである。したがって、査読論文と学者の肩書とは直接関係ないと上では書いたが、こうした次元の話になってくれば、やはり査読は重要な意味をもつといえる。
メディアの功罪と本をありがたがる傾向
それでは、肩書だけの次元ではなく、研究内容において疑問がもたれる三浦氏が、なぜメディアであれほどもてはやされているのだろうか。ルックス、当意即妙な受け答えなど(それぞれ議論はあるだろうが)、メディア受けする要素とともに、人々やメディアに本の出版をありがたがる傾向が強過ぎるからではないだろうか。
三浦氏の東大の博士論文を基にした『シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき』(岩波書店)は、少なくともアマゾンのレヴューでは高評価であり、東大の先生のありがたい本ということになる(この著作への批判は他に譲る)。査読誌掲載がないといっても、曲がりなりにも東大の審査を通り、一流の出版社から著作が出版されているということになる。さらに、徴兵制を主張するような本が賛否両論巻き起こすのは仕方がなく、筆者のように徴兵制の研究でもしない限り、こうした著作の明らかな問題を指摘するのは難しい。その他「専門以外」の著作も複数出版し、売れ行きも好調となれば、その権威を疑うのは非常に難しくなってくる。
だからこそ、筆者は、本を書いていれば知識人、本を出版している人をありがたがるという傾向そのものに疑念を呈したい。こうした意味で、査読も査読者やジャーナルによって多種多様でもあり、決して完全ではなく、また、必ずしも学者か否かの判定などに使えるようなものではないにせよ、重要なプロセスであるのは疑い得ないだろう。
とある著名な政治学者が好んで使う例だが、まさに国際政治学の世界的大家にジェームズ・フィアロンという学者がいる[10]。Google Scholarによれば、2020年8月20日現在の引用回数は、4万を超える。この大学者が書いた単行本(単著)の数は何冊だろうか。答えは0である。世界的大学者の単行本が0なのである。その代わりに査読誌の掲載論文は山のようにある。このような現象は理系では、おそらく当たり前だろう。社会科学でも十分あり得るようになってきている。いずれ人文科学においても起こり得るだろう。したがって、査読論文が収録された論文集などの単著はまだしも、本を過剰にありがたがる傾向には注意したいものである。
以上をまとめると、三浦氏の徴兵制の主張に対する解約運動は若干やり過ぎなところがあり、査読誌掲載の有無から学者か否かを判断するのも厳し過ぎるきらいがあるが、三浦氏の研究手法や内容には強い疑念が残り、三浦氏に限らず、「専門家」や「識者」のメディアでの扱いには十分な注意が必要だろうという無難な話になる。
[1] 出典URLの最終閲覧日は2020年8月20日。
[2] 安中進・喜多宗則(2019)「徴兵制と平和論―Directed dyad データに基づく徴兵制と政治体制が国際紛争に与える影響―」WINPEC Working Paper Series No. J1901 May 2019、Annaka, Susumu, Munenori Kita, Naonari Yajima, and Rui Asano (2020) “Democracy, Conscription, and War: The Effects of Political Regimes and Types of Military Recruiting on the Initiation of Militarized Interstate Disputes.” SocArXiv. August 11. doi:10.31235/osf.io/9vwpe. 筆者らの最新の研究(英語版)では、民主主義国家における徴兵制の紛争抑止効果には肯定的だが、近年こうした傾向が見られなくなっているという分析結果も報告している。いずれにせよ、安易な徴兵制導入の主張は実証研究からは引き出し難い。
[3] ただし、筆者は自分で「~学者」と名乗ったことはない。
[4] したがって、問題が徴兵制ではなく、スリーパーセル発言などでは、やや異なってくる可能性もあり得るが、今回は徴兵制が主に大きく取り上げられているという認識をしている。
[5] ABEMA TIMES「アマプラ解約運動に賛否の声 相次ぐネット炎上は『怒りの日替わり定食のよう』」2020年8月19日付(https://times.abema.tv/posts/8620415)。
[6] たとえば、数学科を出た人材などは、経済学や金融論の大学院以降においては、むしろ重宝される傾向にある。日本を代表する経済学者の宇沢弘文や、若きノーベル経済学賞候補で大学入学時の理系から経済学に転じた小島武仁など、こうした例は数知れない。
[7] 蛇足だが、筆者も過去に採用されている。特別研究員の審査は、公平を期して行っているとされる。
[8] 学位論文要旨(http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=126475)
[9] 以下列挙すれば、Choi, Seung-Whan and Patrick James (2003) “No Professional Soldiers, No Militarized Interstate Disputes?” Journal of Conflict Resolution 47: 796-816. Choi, Seung-Whan and Patrick James (2008) “Civil–Military Structure, Political Communication, and the Democratic Peace.” Journal of Peace Research 45: 37-3. Horowitz, Michael C. and Matthew S. Levendusky (2011) “Drafting Support for War: Conscription and Mass Support for Warfare.” The Journal of Politics 73: 524-534. Horowitz, Michael C., Erin M. Simpson, and Allan C. Stam (2011) “Domestic Institutions and Wartime Casualties.” International Studies Quarterly 55: 909-936. Kriner, Douglas L. and Francis X. Shen (2016) “Conscription, Inequality, and Partisan Support for War.” Journal of Conflict Resolution 60: 1419-1445. Pickering, Jeffrey (2011) “Dangerous Drafts? A Time-Series, Cross-National Analysis of Conscription and the Use of Military Force, 1946-2001.” Armed Forces & Society 37:119-140. Vasquez, Joseph P. (2005) “Shouldering the Soldiering: Democracy, Conscription, and Military Casualties.” Journal of Conflict Resolution 49:849-873.
[10] 三浦氏の著作でも論文が引用されている。