ー 本記事は、The HEADLINE編集長・石田健の個人的見解です。編集部や本誌の執筆者を代表する見解ではありません。
東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長による発言に批判が集まる中、「#わきまえない女」というハッシュタグに支持が集まっている。これは、森会長が、組織委員会の発言の短い女性理事について「わきまえておられる」と称したことを批判する声で、2月4日にはTwitterのトレンド1位を獲得した。
こうした流れを受けて、テレビ番組の制作者有志による映像プロジェクトChoose Life Projectは、同月6日にYouTubeのトークイベント「Don’t Be Silent #わきまえない女 たち」を開催した。つづいて9日には、男性のみが登壇するイベント「Don't Be Silent #変わる男 たち」が予定されていた。
ところが、このイベントには批判も集まり、最終的には「仕切り直しと再考」が決定された。
一体、何が問題だったのだろうか?そもそも #変わる男たち を批判することはできるのだろうか?フェミニズムの「商品化」という概念を切り口として考えていく。
#変わる男たち への批判
まず「#変わる男たち」にはどのような批判が向けられたのだろうか。たとえば、6日のイベントに参加した編集者の小林えみ氏は、以下のように語る。
著名な/社会的地位のある男性が集まることで生じるマチズモや権力性のことを、考えてほしいです。それを解体するのだ、であれば別のやり方があるはず。
変わらない男より、変わる男の方が良いに決まっている。ただ、それがこのように教導するような宣言をされるものであるならば、おそらくそれは強い者たちのスローガンと免罪符にしかならないだろう。
また、森会長の処遇の検討などを求めるオンライン署名の発起人の1人である福田和子氏は、「企画を見た時、ジェンダー平等や今回の問題について話す男性がいるってだけで、素直に嬉しくなった」ものの、次第に違和感を覚えたとして、以下のように述べる。
伴ってないのに #変わる男 って言葉使うだけで「わかってる(つもりな)俺」「アップデート完了したぜ(のつもり)な俺」の人がたくさん出るのも怖い気がする。
立命館大学准教授の富永京子氏は、以下のように述べる。
社会運動って多くの人の耳目を引いて意識を変えることが大事で、そのために「有名性」と「集まり」が重要なのはわかる。でも運動も社会なわけで、送り手の意図とは独立にそういう有名性や「豪華さ」を礼賛する人は必ず出てくる。そういう社会運動の中の権力性とジェンダーも分かち難く結びついている。
#変わる男たち のような存在をちやほやする立場を(半ば無意識に)演じざるを得ない運動内の女性の葛藤は、いままでもいろんな記事や研究で描かれてる。「変わった」ことを色々な形で言葉にするのはもちろん大事だと思う。ただそれを運動として(集まって)することの意味を多面的に考えて欲しい。
そして、9日のイベントに出演予定であった一般社団法人fairの松岡宗嗣氏は、同イベントへの出演を辞退した上で、以下のように述べる。
「わきまえない女たち」そして「変わる男たち」という構図は、やはりどうしても二元論がベースとなり、私はシスジェンダーの男性ですが、同性愛者でもあって、変わる男たちが想定する「男」という枠に忌避感を感じてしまいます。
これまで社会が求める「男」から排除されてきたときにシスジェンダー・ヘテロセクシュアル前提の男女という二項対立を強化することは良いのだろうかと。
こうした批判、あるいは危惧を受けると、大きくこのイベントが内包する危険性は、4つの方向性から整理できるだろう。
1. 地位ある年長男性による権力性
小林氏が「マチズモ」と表現するように、地位ある年長男性が集まって喋ることの権力性は、様々な研究から指摘されてきた。それはボーイズクラブや男性性(Masculinity)、家父長制などの概念とあわせて、(主に)ヘテロセクシュアルの、人種的マジョリティの年長男性による排他的な空間が、社会の意思決定や権力の源泉になってきたという分析だ。
権力を有する年長男性の言葉は、それ自体が権力性を持ち、女性に「わきまえろ」などと要求する空間を構築する。今回のように「あえて男性のみで構成された空間」であっても、意図せざる効果を生み出す危険性がある。
2. 運動内部のジェンダー不平等
男性の声が権力を持ち、尊重される構造は、社会運動においても繰り返し指摘されてきた。
第二派フェミニズムの端緒となった 「ウーマンリブは、欧米においても日本にあっても、学生運動や反戦運動から出発」したことで知られる。それは男性が、政治や社会の問題を高らかに訴える裏側で、運動の女性メンバーが男性の「サポート」に周り、抑圧・従属的な役割を押し付けられ、性暴力にすら晒される実情を批判する声であった。
現在でもこうした問題は無くなっておらず、「社会運動の場においても、私には『女性』として期待される役割があった」ことを批判する声が持ち上がっている。
「#わきまえない女」という運動において、男性による語りが大きな地位を占めることは、運動に参加する女性たちが被ってきた差別や抑圧の構造を隠蔽する危険性がある。
3. 免罪符・賞賛としての語り
男性の語りが単に権力性を帯びるばかりでなく、彼らの免罪符や賞賛の対象として機能する危険性もある。内省を求める機会であっても、現実として女性から「こうした問題に気付いてくれてありがとう」と感謝されたり、称賛を受けることは容易に想像できる。
また、「彼らはすでに変わったのだから、なぜ繰り返し責めるのか」と女性を非難する声も上がるかもしれない。過去の行為の免罪符として扱われるだけでなく、未来の抑圧的な行為について、批判を無効化するリスクも有している。
4. 硬直化した男女二元論
また「#わきまえない女」に対置して「#変わる男」という設定がなされた問題もある。これは硬直した男女二元論につながる危険性があり、「#変わる男」が想定する男性像も、シスジェンダー(生まれた時に割り当てられた性別と自認する性が一致する人)やヘテロセクシャル(異性に性的感情を抱くセクシュアリティ)を前提としているように思われる。
ただし本批判については、後述するステートメントで以下のように説明されており、企画としては問題を乗り越える設計がなされていたと説明される。
ノンバイナリーの方々とも議論をした上で「#進むわたしたち」として、3回目の配信も予定していました。これは、この問題を「男性 / 女性」の枠組みに押し込めたり、シスヘテロ二元論の議論をむしろ問い直す形で考えていくことを目指していました。
以上のように、複数の危惧や批判が向けられて中止となった本イベントだが、決定後には経緯を説明する「『Don’t Be Silent #変わる男たち』の仕切り直しと再考に関して」と題されたステートメントも公開された。
ステートメントへの違和感
本ステートメントは、筆者の見る限りSNSなどで概ね好意的に受け取られていたが、個人的には大きく3つの違和感が残った。
女性による企画
1つは、文中において以下の表現があった点だ。
先週6日(土)にお届けした「Don’t be silent #わきまえない女 たち」と題した女性25人のリレートークによる生配信も、今回の配信「Don’t Be Silent #変わる男たち 」も、企画したのは女性スタッフたちです。今このnoteを書いているのもCLPを運営している女性スタッフです。
果たして、この場において「女性が書いている」「女性が企画した」という情報が不可欠だったのかはよくわからない。
森会長が批判を受けた際に、妻や娘から叱られたと述べたが、このように自らの批判に対して、身近な女性や人種的マイノリティーの存在を持ち出すことで無効化しようとする姿勢は、「I'm not racist, I have black friends(私はレイシストではなく、黒人の友人がいる)」論法として知られる。
本件がそれに該当するかは分からないが、「その際の人選も女性たちが行いました」や「CLPの男性スタッフに、男女同数を守らなければこれ以上協力できないと詰め寄った」などの表現にも違和感が残った。
有害な男らしさ
2つ目は、以下のように「有害な男らしさ」と言った概念が中心に据えられている点だ。
この配信が、男性が持つ加害性や「トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)」について語る場になることも意図していました。
この概念の持つ問題点は、たとえば「What is “Toxic Masculinity” and Why Does it Matter?」などで指摘されているが、この概念を中心に据えて議論することの危うさも予感させた。
本企画の意図として、以下のような記述がある。
男性たちが、男性のみで真剣に、ジェンダーの問題について、反省や気づきを踏まえて語る番組はほとんどありません。それがたとえ男性の「集団」として提示され、違った権力性を顕示してみせてしまったとしても、そのこと自体を問題化したいという思いがありました。
すなわちこのイベント自体、「権力性の顕示」が目的の1つということだ。果たして、そうした目的はどこまで正当化されるのだろうか?「#変わる男」の旗で集められた男性が、後から「そうやって真剣に語っても、立場ある年長男性が語ること自体が権力性を帯びるのだ」と不意打ちのように批判されることは、もしそれが「意図的であったなら」望ましいあり方なのだろうか?
個人的にはそうは思わない。少なくとも、真剣に内省するために集まった出演者を後から意図的に再批判するため(あるいは、そうした批判が起こる可能性に自覚的なまま)に議論の場が設定されたのならば、全くその趣旨には同意できない。
出演者の認識・同意
加えて、これは3つ目の違和感だが、「権力性の顕示」のために出演者が呼ばれたと理解していたのかも気になる。実際、司会者として予定されていた荻上チキ氏は以下のように述べる。
企画の具体的内容や出演者についての連絡がなく。Twitterでの告知を見て、初めて出演確定も、テーマや出演者も知るに至りました。同様の出演者は複数いたようです。
これに対して、主催者は以下のように述べている。
企画趣旨を踏まえた上でお引き受けいただいた出演者のみなさまには感謝しかありません。簡単ではない決断だったと思います。本当に、本当にありがとうございます。
もし出演者の認識が事実であれば、「権力性の顕示」は不意打ちであったと言えるし、主催者の主張が正しければ、出演者は自らに向けられる批判を避けるために「知らなかった」と嘯いたことになる。
批判への戸惑い
ここまでイベントとステートメントへの批判を見てきたが、筆者が概ねこうした批判に同意する立場である一方、いくつかの戸惑いもある。それは大きく3つだ。
1. キャンセルカルチャーへの加担
1つは、自分がキャンセルカルチャーに加担したのではないかという問題だ。キャンセルカルチャーとは、問題ある発言や論争を呼ぶ振る舞いをした際に、その人を社会的コミュニティーから排除し、発言の機会を奪う現象を指す。
この背景には、近年の大学や言論空間が「真実」よりも「社会正義」を優先する場になっていることが挙げられるが、こうした問題は米国に限らず日本でも見られる。
キャンセルカルチャーは、発言の萎縮や科学的な議論を後退させる懸念があるため批判されているが、その勢いが強まっていることは間違いない。これは決して差別的な発言を軽視したり、批判を弱めることを推奨しているわけではなく、科学的な議論や様々な政治的立場は常に尊重されるべきであり、それが社会の空気によって決まるべきではないということだ。
しかし今回、自分もイベントの問題点を指摘した1人として、出演者の議論を聞くことなく、それを中止に追い込んだことへ多少の罪悪感を持っている。
2. <当事者>不在の語りの成否
また、そもそも男性のみで本問題を語ることが可能か?という問題については、イベントに対する批判に賛同していない。
<当事者>不在で問題を語ることは、必ずしも不可能ではないはずだ。その行為の危うさや議論の誤謬に自覚的であり、その後の批判に開かれている限り、いかなる議論も止められるべきではない。
また、<当事者>を括弧付けしたように、男女二元論に与さず、差別者-被差別者という関係性が流動的であることを考えても、女性がいないことが必ずしも「差別者のみの空間」になることを意味しない。
「BLMも白人だけで話し合わない」という指摘もあるが、必ずしも人種差別の構造が決して一枚岩ではない限り、特定の属性の人々だけで問題を語ることが「ありえない」ことはない。(たとえばモデルマイノリティという問題があるが、アジア系内部にも権力構造があり、そうした議論をする場合はアジア人のみで議論を行うのは適切だろう。BLM運動にこの構図がそのまま適用できるわけではないだろうが、特定の人種・属性のみで議論することそのものが問題を有しているわけではない)
筆者は当初から、「男性のみでイベントを開催することが問題」という立場は取っていない。しかしイベントへの批判にこうした論理が多かったことを考えると、この議論はもう少し深まるべきだったと考えている。
3. 「語る資格」という問題
そして最後に、「語る資格」という問題がある。
本イベントを見た時、最初に感じた違和感は、男性のみの語りによる権力性ではなく(それは筆者自身の理解の浅さを物語っているが)、登壇者に「語る資格」があるのか?という違和感だった。
この「語る資格」というのは、非常に問題含みの思考だ。これはいわゆる「そっちこそどうなんだ主義(Whataboutism)」と呼ばれる。ある問題に対して、「お前はどうなんだ」と返すことは、批判の論点をずらすばかりか、無意味な水掛け論を生み出す意味で害悪ですらある。
「語る資格」があるのか?という違和感は、当然ながら筆者にも向けられる。筆者は、前述した問題を当初から全て理解していたわけではなく、過去も現在も自分に性差別・抑圧的な言動が思い当たる意味では、当然「語る資格」は無くなってしまう。
ところが「この語る資格」を問題化することで、誰もが語る資格を失ってしまうことも事実だ。前述したような固定化された男女二元論が危険性を孕んでいるという意味では、女性にすら「語る資格」が無くなる場合もあるかもしれないし、全ての人が「差別をする側」と「差別をされる側」のどちらにもなり得ることを考えれば、誰も語ることができなくなってしまう。
つまり、ある問題を語るためには、「語る資格」という論者の人格やパーソナリティを切り離し、その問題そのものに目を向けなくてはならない。しかし実際には、現実問題として「語る資格」という感覚は我々に重くのしかかってくる。
そこで最後に、この「語る資格」という概念を棄却した上で、「商品化」という概念を通じて、フェミニズムを<語る>ことの危険性を考えていく。
「語る資格」から「不当利益の享受」へ
<語り>と括弧付けをしたのは、この表現が単なる会話や談笑ではなく、ある言説が意図や効果を持って立ち上がる空間でのコミュニケーションを指すためだ。<語り>には、ある種の権力が生じる。
たとえば歴史研究において、女性や下層身分の人々、あるいは非西洋社会には、十分な<語り>の場が与えられなかったことで、彼らの存在は不可視化されてきた。<語り>の空間が年長男性に占められてきたことや、異議申し立ての<語り>が記録されなかったことは、様々な研究による重要な洞察である。
一方、誰かの<語り>を不当だと非難したり、権力性の発露を批判することは容易ではない。
たとえば過去に抑圧的、差別的な言動をした人が、新たにフェミニズムについて学び、価値観の変容を経て、問題を<語る>ことは珍しくない。そもそも、過去にそうした言動から全く無縁だった人など存在せず、筆者も例外ではない。加えて、ある局面においては特権性を有している人が、別の局面では差別を被る側になることも珍しくはない。
そうであるならば、価値観や言動の変遷を経た人について、わたしたちはその<語り>を批判することが可能なのだろうか?
Woke-washing
これは、個人の問題に限らない。たとえば企業が社会問題や差別問題、多様性などに関心を払った広告やメッセージ、立場を示しても、それが単なるマーケティング手段であったり、内実を伴っていない場合、Woke-washingと呼ばれる。Wokeとは「目覚める」を意味して、社会問題などに敏感になることを表すが、これと「上辺を取り繕う」意味のwashingを組み合わせた造語だ。
たとえば日本でも、今年1月に不動産会社の株式会社エイブルが、カマラ・ハリス副大統領就任に合わせて「『女性初』が、ニュースなんかじゃなくなる日まで」という広告を出したが、同社役員の「ほとんど」が男性であることが話題になった。人種差別を批判するCMやアメフト選手のコリン・キャパニックを起用したCMで話題となったNIKEですら、女性アスリートに産休を与えなかったことで非難を浴びた。
Woke-washing は、必ずしも問題ばかりではない。企業がその後、実際のアクションへとつなげる可能性があるという意味では効果的ですらあるかもしれない。しかし彼らはあくまで営利企業であり、自己利益に動機づけられていることは大前提だ。
ここがポイントだ。企業は、様々な社会問題や構造的差別などに気付くことで、自社の制度や体質を変えることができる。それは素晴らしいことであり、「過去はこうだったくせに」とか「あの会社が語る資格はない」と批判されるべきではない。しかし、彼らが自社の利益のために行動しているならば、そのことによって必要以上に称賛を集めたり、利益を享受するべきではない。
Woke-washing は、「語る資格」の問題ではない。問題は、<語り>による「不当利益の享受」だ。それは企業や個人に関係なく生じる。
前述したように、「語る資格」を議論の俎上に持ち込むことや批判の論理として用いることは大きな問題を孕んでいる。しかし誰かの資格を問うのではなく、そこから何らかの(不当な)利益を享受していないか?という線引きをおこなうことで、有効な判断ができるはずだ。
以下では、このアイデアを掘り下げていこう。
「文化の盗用」の援用
「不当利益の享受」というアイデアは、文化の盗用におけるアイデアを援用している。
文化の盗用とは、マイノリティーの文化を不当に搾取したり、盗用することを指す。たとえばネイティブ・アメリカンの儀式を文脈を無視して真似たり、誤ったオリエンタリズムに基づいて、その表層だけを真似したファッションや音楽を取り入れることが挙げられる。
詳しくは以前に拙稿「文化の盗用とは何か:所有/簒奪という二項対立を乗り越える」で紹介したが、法学者スーザン・スカフィディ氏は、あるコミュニティが生み出した文化的プロダクトの不正使用を保護するために、以下の区分を求める。
- プライベート・非商品化(Private, Noncommodified Cultural Products)
- プライベート・商品化(Private, Commodified Cultural Products)
- パブリック・非商品化(Public, Noncommodified Cultural Products)
- パブリック・商品化(Public, Commodified Cultural Products)
上から順に、これらのレギュレーションにもとづいて、あるコミュニティが生み出した文化的プロダクトの不正使用をより強く保護する必要に迫られる。
ここでは、文化的プロダクトを「あるコミュニティにおいて長年おこなわれてきた儀式」として考えていこう。
最も強い「プライベート・非商品化」であれば、この儀式のプロセスは公開されず、それを商業映画の題材にすることで第三者が商品として利用することもできない。しかし「プライベート・商品化」であれば、そのプロセスは秘匿されつつも、商品化することは可能となる。たとえばこの儀式からインスピレーションを得た儀式をドラマ化して、興業化することが許されるだろう。
また「パブリック・非商品化」であれば、儀式のプロセスを公開することは許されるが、それを商品化して利用することは許可されない。そして「パブリック・商品化」であれば両者が認められるが、文化的プロダクトとコミュニティの関係を無視するのではなく、そのプロダクトの真正・信憑性を保護する認証システムのようなものを生み出すことが望ましいとされる。
これをフェミニズムに援用すれば、どうなるだろうか?
まずフェミニズムという思想は、プライベートなものではなく、パブリックに流通させるものである。その意味で、これらは「パブリック・非商品化」か「パブリック・商品化」に該当する。
その上で、その思想が商品化されることを避けるべきだ。特に、企業や著名な人がそれを利用する場合は、商品化が容易になってしまうため慎重を期する必要がある。この結果、「パブリック・非商品化」として扱われるべきだ。
商品化とは何か
ここで言う「商品化」とは、単に何かを売って収益化することではない。自分の評判(レピュテーション)を高めたり、その評判によって社会的報酬や経済的報酬を得ることなどが含まれる。個人にとっても企業にとっても、Woke-marketingが有効な時代だ。その<語り>が何らかの利益のために利用されているのか、あるいは不可欠なものであるかを考えることは、かつてないほど重要となっている。
加えて、心理的な報酬という意味において「告解」(こっかい、Confessio、自らの罪を聖職者に告白することで、神から赦し・和解を得る信仰儀礼)も含まれる。社会・経済的報酬がプラスの報酬であることに対して、これらは借金の返済のようなものだ。フェミニズムへの「理解」を示すことで、過去の差別的・抑圧的な言動を帳消しにしようとする行為が、これらに該当する。
企業や個人が、何らかの社会・経済的報酬を得るため、あるいは過去の罪を消し去るために、フェミニズムを利用することは、その「商品化」による「不当利益の享受」に該当する。
重要なことは、フェミニズムは決して「プライベート・非商品化」を求めているわけではない。誰もがその思想について学び、考え、語ることは許可されているどころか、望ましい状態だ。その意味で、秘匿された思想でも、誰かが特権的に語ることを許された思想ではない。すべての人に開かれたパブリックなものであるからこそ、それが「商品化」されていないかを厳しく判別する必要がある。
繰り返しとなるが、問題となるべきは、誰に「語る資格」があるのか?ではなく、誰であっても「不当利益を享受」していないか?なのだ。
語りの収奪
「不当利益の享受」という視点は、イベントへの批判として出てきた「免罪符・賞賛としての語り」という問題をより先に進める。それは、誰かが不当な利益を享受しているということは、誰かが裏で損失を被っていることを示唆する。
誰かが「不当利益を享受」するために、フェミニズムを<語る>ことは、誰かの<語り>を奪う可能性がある。前述したように、<語り>は権力性を有しており、その機会や場が奪われることは、異議申し立ての機会や問題の存在自体が忘却させるリスクを持っている。
ある会議において、男性に<語る>機会が提供されるということは、その分の誰か(たとえば女性)の<語り>が奪われるということだ。これは「不当利益の享受」の問題が、不当であることそれ自体だけでなく、ゼロサム的に誰かの機会や利益を侵害していることを表している。
余談ではあるが、主流な歴史および社会科学の研究から、マイノリティの<語り>はこぼれ落ちてきた。これはガヤトリ・スピバァクから保苅実まで、多くの歴史家による重要な洞察だ。その<語り>が奪われてきたばかりか、収奪者によって商品化されてきた歴史は、フェミニズムに限らず帝国主義や植民地主義の分野において、より広範に研究される必要があるだろう。
誰がフェミニズムを商品化しているのか?
本イベントに対する一部の批判は妥当性を持っていると考えるが、現時点で中止とすべきだったか、筆者に答えは出ていない。イベントに向けられた危惧を乗り越える方法はあっただろうし、存在しないイベントが中止に値すべきものだと断罪することは不可能だ。
しかし確実なことは、過去、あるいは未来の<語り>について、常に「商品化」されていないかを問うことは可能だということだ。
ある<語り>が「商品化」されたものか否かを判別する、明示的な線引きは存在しない。企業のWoke-marketingは分かりやすいかもしれないが、個人のそれは、根元的な問題意識に基づくものなのか、社会・経済的報酬を期待したものなのか、他者が判別することはほとんど不可能だろう。
Wokeと説明責任
ただし全くもって不可能なわけではなく、我々は説明責任を用いることができる。誰もが気付き(Woke)はじめた時代、なぜその気付きを<語る>必要があるのか、それが誰かの語りの場を占有していないか、あるいは収奪していないかを自覚的に問い直す、あるいは外部からの疑念に説明責任を果たし続けることが重要である。
誰もが「語る資格」を持っており、語ることが可能だ。しかし、「語る場」を持つほどの権力・地位を有している人には、そのことが強く要請されるだろう。一般的にそれは、年長男性であり、誰かに<語る>ことを要請される立場の人物である。そして、彼らが複数人集まることで、「商品価値」があがることも間違いない。
前述したとおり、筆者は今も自分に「語る資格」があるかという疑念を抱えている。ただ少なくとも「資格」という曖昧で不明瞭なものを問うよりも、自らの語りが常に「商品化」されていないかを問い直すことが、より重要だと考えている。
本記事における<語り>は、「不当利益の享受」に該当せず、有効なアイデアとして社会に貢献を果たしているだろうか?筆者にとって、これは重要な実践でもある。
注記
本記事は、2月9日にYouTubeおよびClubhouseでおこなった下記配信から生まれました。
本配信がなければ、筆者の考えがまとまることはなく、本配信のはじまる前と終わったあとには、大きな思考の変容がありました。配信という性質上、本記事では参加者の発言を個別に参照していませんが、本記事の大部分は議論に依っています。すべての参加者の方に感謝すると同時に、参照元の発言については下記の動画をご覧ください。