台湾情勢をめぐる緊張が高まっている。
年初より「アジアにとって2022年最大のリスクは台湾問題」という指摘がなされていたが、2月末に起きたロシアによるウクライナ侵攻を受けて、安倍晋三元首相が中国による台湾への対応に懸念を示すなど、台湾情勢には一層注目が集まっている。今回の侵攻が、直接的に中台関係を変化させるかは不明だが、少なくとも中国の戦略的変化をもたらすという見方は強い。
中国の王毅外相は7日、台湾は常に中国の一部であるという立場から、台湾とウクライナの問題は「全く比較にならない」と指摘し、議論そのものを否定する立場を強調したが、国際情勢が不安定化する中で、台湾問題についても多くの関心が寄せられていることは確かだ。
それでは、そもそも台湾問題はどのような経緯で発生し、現在の中台関係はどのような状態にあるのだろうか?
中台関係の歴史
台湾問題の背景を基礎から理解するために、まずは現在に至るまでの中台関係の歴史と、台湾をめぐる国際的なコンセンサスがどのように成り立っているのかという経緯について概観していこう。
近代以前
台湾島が中華王朝(*1)の領土として最初に統治されたのは、清王朝の時代だ。台湾島はオランダの植民地(1624〜1661年)を経て、1683年から1895年まで清王朝の統治下に置かれた。日本では江戸時代から明治時代にあたる時期であり、宮古島島民遭難事件(1871年、宮古島島民が台湾の先住民に殺害された事件)や台湾出兵(1874年、宮古島事件を受けて日本が犯罪捜査を名目に出兵した出来事)など、この時期から日本との関わりも深かった。
19世紀後半に入り、産業の近代化によって国力をつけた欧米諸国がインドを超えて、東アジアや東南アジアなどに進出をはじめると、台湾島はその戦略的立地の重要性や資源の豊富さ(*2)から注目が集まるようになり、清王朝によって近代化が図られた。しかし1895年の日清戦争後は、下関条約に基づいて清から日本に割譲され、大日本帝国の一部として統治されることとなる。
その後、第二次世界大戦後に日本が支配権を放棄すると、戦勝国の1つである中華民国がカイロ宣言に基づき、連合国であるアメリカとイギリスの同意を得て、台湾島を統治し始めた(台湾光復)。
(*1) いわゆる歴史上の「中国」を指す。史書に記された中国最古の王朝「夏」から、中国本土およびモンゴル高原を支配した最後の王朝「清」(1644-1912年)までを指す。
(*2) 台湾は、当時の西欧諸国が進出していた東アジアと東南アジアを結ぶ要衝に位置しており、西欧諸国と東アジア諸国の貿易の中継地点にもなった他、台湾で採掘される石炭が貿易で使われる蒸気船の動力源ともなっていた。また当時の台湾では、金、硫黄、大理石などの資源も大量に採掘・採石されていた。
軍事的膠着状態から「外交戦争」へ(1949年~1979年)
中台関係における大きな転機は、1949年12月の台北遷都だ。
戦後、中国大陸では蔣介石が率いる国民党と毛沢東が率いる共産党の間で内戦が発生していた。前年に大規模な軍事的勝利を得た共産党は、1949年に入ると戦況を優位に進め、同年4月23日には中華民国の首都・南京を陥落させた。まもなく同党は、中国大陸をほぼ掌握すると、10月1日に北京で「中華人民共和国」(以降、現在の通称に従って「中国」と表記)の建国を宣言した。
これを受けて国民党の蒋介石らは台湾島に逃れ、12月に台北を臨時の中華民国(以降、現在の通称に従って「台湾」と表記 )の首都とした。
この国共内戦の結果として、中国と台湾はそれぞれが自らを「中国」の正統政府であると主張し、互いの存在を否定した。具体的には、国民党政府が台湾島を不当に支配しているとして、中国が「中国」の統一を実現するという「台湾解放」を唱えた。台湾側も「祖国統一」と「大陸反攻」を主張し、中国側とは「接触せず、談判せず、妥協せず」という「三不政策」を取った。軍事的には膠着状態が続き、1954年と1958年の2度に渡って、台湾海峡の沿岸島嶼において衝突も発生している(第一次、第二次台湾海峡危機)。
その後、中国と台湾の争いの場は国際政治の舞台に移り、「外交戦争」(外交関係の奪い合い)が展開されるようになった。1960年代までは、台湾がアメリカの支援を背景として国連の議席や常任理事国としての地位を維持するなど、優位に立っていたが、1971年に中国側が国連の代表権を獲得してからは立場が逆転した。1972年には米・ニクソン政権が対中接近政策に転換したことで、79年に米中の国交が回復(同時に米台の国交が断絶)。台湾の政治面での国際的孤立は深まった。
交流の拡大(1979年~2000年)
両者の指導者の世代交代が進んだ1980年代以降、双方の政策に変化が見られるようになる。