日本時間9日、英国王室はエリザベス女王が亡くなったことを明らかにした。1926年4月21日生まれ、96歳だった。
エリザベス女王は、幼い頃に第二次世界大戦を経験し、1952年に父である国王ジョージ6世の崩御に伴い、25歳の若さで英国女王となった。以降、英国史上最長在位の君主となったエリザベス女王の生涯は、第二次世界大戦から戦後にかけて、英国の現代史とともにあった。世界から功績を讃えられる偉大な女王であったことは間違いないが、一方で「彼女の時代を美化するべきではない」という警鐘も聞かれる。
背景には "大英帝国の君主" が、世界中に広がった植民地主義や奴隷制などの暗い歴史を象徴・反映していることが挙げられる。
エリザベス女王はどのような生涯を歩み、どのような批判が向けられているのだろうか?
大英帝国の王室子女として
エリザベス女王は、1926年4月21日に首都・ロンドンで生まれた。本名はエリザベス・アレクサンドラ・メアリーで、家族からはリリベットと呼ばれた。
フィリップ・ド・ラースローによって描かれたエリザベス女王(Philip de László, Public domain)
この年は、日本で15年続いた大正時代が終わりを迎え、元号が昭和に改められた年でもあり、第一次世界大戦(1914〜1918年)を乗り越えた英国では、ボールドウィンが首相を務めていた時代でもあった。
特に英国は、大英帝国としての落日が顕著となっており、帝国の植民地であったニュージランドやオーストラリア、南アフリカなどの政治的・外交的独立が是認された(バルフォア報告書)年でもあった。この年以降、大英帝国はイギリス連邦(British Commonwealth of Nations)となっていき、独立した主権国家が緩やかにつながる現在の形態であるコモンウェルスに近づいていく。
後に国王ジョージ6世となる父親は、第83回アカデミー賞作品賞を受賞した映画『英国王のスピーチ』で描かれた、第二次世界大戦を戦い抜いた国王だった。また母・エリザベス妃は、ナチ・ドイツによるロンドン大空襲などを受けても避難を拒否し、英国国民にとってナチとの戦いの象徴になる人物だった。
1939年、父・国王ジョージ6世と母・エリザベス妃(Canadian Museum of Science and Technology, Canadian National Collection, Image No.: CN003793, Public domain)
1936年、父が国王となったことで兄・弟のいなかったエリザベス王女が、王位継承権者第1位となる。
本来、父であるジョージ6世には兄・エドワード8世がおり、このエドワード8世が次期国王として決まっていたが、米国人の既婚女性との恋愛関係や、ナチ・ドイツへの親和的な姿勢が問題視され、わずか1年も経たないうちに退位。結果として、ジョージ6世が国王となり、エリザベス王女が次期女王になる波乱の人生だった。
第二次世界大戦の勃発
ジョージ6世の即位からわずか3年後の1939年、ナチ・ドイツ軍がポーランドに侵攻したことで第二次世界大戦が勃発。エリザベス王女らは、安全なカナダへ疎開することを勧められたが、母・エリザベス妃が拒否したことで、英国国民と共に戦うことになる。
若い王女たちは、安全のためロンドン西部に位置するウィンザー城に移動したが、空襲警報による避難訓練や食料配給などを通じて、戦時下の国民と同じように日々を過ごした。
1940年には14歳のエリザベス王女が、BBCのラジオ放送を通じて演説(下記 YouTube に実際の音声)しており、以降も国王夫妻と共に、英国各地の国民や部隊に対して訪問・激励などを重ねた。
1945年には、英国陸軍の婦人部隊(英国女子国防軍)に所属して、形式的な女性軍人ではなく、実際の訓練を受けた従軍経験も積むことになる。英国王室は、エリザベス王女が生まれた20世紀前半から急速に "大衆化" を遂げていくが、それでも王女が戦時下に従軍することなど、多くの人は想像できなかっただろう。
1945年、バッキンガム宮殿の国王夫婦とチャーチル首相、エリザベス王女(Levan Ramishvili, Public domain)
第二次世界大戦に勝利した後、王女ら国王一家は戦時中の英国に対する支援への返礼も兼ねて、世界各国の植民地や自治領へ外遊に出向く。その中でも、王女の言葉として語り継がれているのが、1947年に南アフリカ・ケープタウンでおこなった次の言葉だ。
私はその生涯を、長いものになろうが短いものになろうが、私たち皆が属する帝国という偉大な家族に捧げる決意であることを、ここに宣言いたします。
この言葉通り、王女はその生涯を英国に捧げた。しかし女王の治世は、「帝国という偉大な家族」からコモンウェルスへの変容という大きな変化が生じた時期でもあった。
結婚
1947年、エリザベス女王はフィリップ・マウントバッテン(後のフィリップ殿下)と婚約する。当時13歳だったエリザベス王女が、フィリップに一目惚れしたことがきっかけで、大戦中も2人は文通をして交流を続けていた。
婚約発表のエリザベス王女とフィリップ(Associated Press, Public domain)
フィリップ自身は、ギリシャおよびデンマーク王子という名門一家の生まれだったが、2人の結婚にあたっては、彼が英国生まれではなく(ギリシア王国イオニア諸島出身)、十分な資産を有していないことなどが問題視された。またナチ・ドイツの記憶も強い中、マウントバッテン家がドイツ系の家系であり、フィリップの姉がナチと関係あるドイツ王侯家と結婚していたことなど、ドイツとの関係の深さも懸念された。
こうした結婚に際して立ち塞がった障壁や、王女の配偶者(王配)として、王室内で屈辱的な扱いを受けたことが、フィリップの自尊心を傷つけたことも多かった。それでも、フィリップは70年以上にわたってエリザベス女王を支え続け、公務にも献身的に取り組んだ。
またエリザベス女王も、フィリップの失言が問題視されたり、不倫の噂がある時期もあったが、終生信頼を寄せて、仲睦まじい様子を見せ続けてた。
女王として即位(50-60年代)
1952年、わずか56歳で亡くなった父・ジョージ6世から王位を継承し、エリザベス女王が誕生した。『英国王のスピーチ』で描かれたように、ジョージ6世は吃音症を克服し、国王として第二次世界大戦を乗り切ったが、その心労が大きかったことから、戦後すぐに体調を崩すようになる。
そこで王女であったエリザベスが、国王の代わりに公務を代行することも増え、ジョージ6世が亡くなった時も、ケニア(当時は、イギリス領東アフリカ)を訪問中だった。王は即位名を選べるため、秘書官がそれを尋ねると、女王は「もちろんエリザベスです」と答えて、その瞬間にエリザベス2世(*1)が誕生した。
(*1)ちなみにエリザベス1世は、1558年から1603年にかけて在位し、エリザベス朝と呼ばれるイングランドの黄金時代の女王。
戴冠式
すぐにケニアから帰国したエリザベス女王は、ウェストミンスター寺院で戴冠式をおこない、正式に英国女王となった。
戴冠式の様子(The Royal Household)
この戴冠式は、歴史上初めてテレビ放映され、当時の英国の人口3,600万人のうち、推定2,700万人が式典を視聴したとされる。
コモンウェルス(旧英連邦)訪問
その後エリザベス女王は、コモンウェルス(旧イギリス連邦)を訪問する。コモンウェルスとは、大英帝国時代の植民地だった諸国との緩やかな連合体を指しており、前述したバルフォア宣言によって、各国の自治が強まったことから誕生していく。
女王は英国の君主であると同時に、カナダやオーストラリア、ニュージーランドや南アフリカ連邦などの君主でもある。こうした国々に、新たな女王として顔を見せることも重要な公務なのだ。
1953年に英国を出発したエリザベス女王は、大西洋を渡って北米大陸に向かい、ジャマイカやパナマなどのカリブ諸国を訪問し、そこから太平洋に抜けて、ニュージーランドやオーストラリアに到達。今度はインド洋からアフリカ大陸を上に抜けて、翌1954年にロンドンへと戻ってきた。
オーストラリアを訪れたエリザベス女王(National Archives of Australia, Public domain)
この訪問は大成功に終わり、女王は各地で大歓迎を受けた。
スエズ危機
ただしコモンウェルス訪問後の1956年には、英国の衰退を象徴するような事件も起こっている。この年、スエズ運河の国有化を宣言したエジプトに対して、英仏がイスラエルとともに派兵し、スエズ危機が生じたのだ。
英国らはエジプトを降伏寸前に追い込むが、これに米国とソ連が激しく反発。結局、国連総会において停戦決議がなされ、英国はスエズ運河の権益を失うことになる。第二次世界大戦を経て、米国とソ連の二大大国の強大化、そして英国をはじめ欧州の力が相対的に弱まったことを示す事件となった。
1961年、南アフリカ共和国の独立
カナダからインド、アフリカ大陸まで世界中に植民地を有して、「太陽の沈まない国」と称された大英帝国だが、戦後にかけて次々と残っていた植民地も独立をすすめる。中でも象徴的となったのが、1961年の南アフリカ共和国の独立だ。
南アフリカでは、白人と非白人を隔離・差別するアパルトヘイト政策は、戦後から1960年にかけて確立していた。こうした中、同政策に抗議する人々がヨハネスブルグ近郊のシャープビルに集まったが、警察官はこの群集に発砲。69人が死亡する虐殺事件(シャープビル虐殺事件)となった。
英国は、この事件とアパルトヘイト政策を批判したが、南アフリカは逆に反発。イギリス連邦から脱退し、新たに南アフリカ共和国として独立に至った。エリザベス女王もアパルトヘイト政策に強い問題意識を持っていたが、イギリス連邦から脱退したことで、英国らは問題に手出しすることが難しくなってしまった。
コモンウェルスをめぐる問題は、70年から80年代にかけても残り続けていく。
コモンウェルスの女王(70-80年代)
1971年、第1回のコモンウェルス首脳会議(CHOGM)が開催された。世界中に広大な植民地を有していた大英帝国が瓦解して、各国の自治権が認められる中でも、女王に忠誠を誓った緩やかな体制は続いていた。
コモンウェルスの各国は(それが苦痛に満ちたものであれ、誇らしいものであれ)歴史の一時期を共有し、政治的・法的制度で繋がりを持ち、スポーツや文化、教育などで交流を促進している。こうした国々が、英国を頂点として付き従う体制ではなく、コモンウェルス諸国が平等に関係性を持ちながら、政治的・社会的議論をおこなう象徴として生まれたのが、CHOGMだ。
赤色が大英帝国の植民地を経験した国(The Twentieth Century, The Oxford History of the British Empire Volume IV)
コモンウェルスには、現在でもインドやパキスタン、ナイジェリア、バングラデシュなどアジアからアフリカ大陸までの56カ国が参加しており、2年ごとに各国で開催されている。エリザベス女王は、第1回の CHOGM こそ国内の政治的事情から欠席したものの、高齢を理由として長距離移動が見送られた2013年までは、会議の象徴的な存在として、毎年出席を続けた。
後述するように、コモンウェルスはエリザベス女王の死によって、その存続を疑われはじめている。逆に言えば、歴史上最もコモンウェルスを旅し続けたエリザベス女王は、そのくらい重要的な存在であったのだ。
在位25周年
1977年には在位25周年を祝って、エリザベス女王が英国とコモンウェルス各地を巡幸した。
在位25周年を祝ってニュージーランドで発売された切手(Archives New Zealand, CC BY 2.0)
この慶事は各国で盛大に祝われたが、当の英国は、1960年から70年代にかけて「英国病」と揶揄される経済的苦境に喘いでいた。社会保障制度の充実や基幹産業の国有化と裏腹に、企業の国際的競争力は低下し、経済停滞と物価上昇が同時に起こった(スタグフレーション)他、財政赤字の増大が懸念されていた。
こうした中で登場したのが、サッチャー政権だ。
サッチャー首相とエリザベス女王
1926年生まれのエリザベス女王と1925年生まれのサッチャーは、ほぼ同年代だ。
サッチャー首相と米・カーター大統領(White House photo office, Public domain)
英国を率いる2人の女性は、時に緊張関係にあったと言われるが、必ずしも敵対的ではなかった。実際、エリザベス女王は2013年に行われたサッチャー元首相の葬儀に、1965年のチャーチル元首相以来となる、異例の参列をおこなっている。
女王と政治
2人の個人的な関係はさておき、重要なことは女王が政治的意見の表明を許されていないことだ。
女王は毎週、首相と面会して情勢報告を受けることが慣例で、個人的な会話を通じて "アドバイス" をおこなうこともある。しかし女王の役割は憲法により制限され、議会の開会から首相の任命などの形式的儀式は担うものの、政治的行為や発言をおこなうことはできない。
つまり、エリザベス女王とサッチャー元首相の間に、どのような見解の相違があったかも分かっていないし、コモンウェルス諸国で起こった出来事に対する、女王の個人的見解も分からない。エリザベス女王は、この点を特に重視しており、自らの公務における政治性の排除を常に徹底していた。
コモンウェルスの女王でありながら、その政治的問題から距離を取ることは、後述するように「沈黙を選んだ」とも言えるかもしれない。しかしエリザベス女王は、その思慮深い振る舞いを生涯に渡って崩さないことが、女王としての献身的な姿勢だと理解していたようだ。
北アイルランド問題
とはいえ「女王が政治的発言をしないこと」が「王室が政治的な存在ではない」ことを意味するわけではない。そのことは、北アイルランド問題をめぐっても明らかだ。
北アイルランド(Google Map)
北アイルランドは、アイルランド島の北東部に位置しており、その領有をめぐって英国とアイルランドの間で1960年代から地域紛争が生じていた。特に北アイルランドの武装組織・IRA暫定派は、長年に渡ってテロ行為をおこなっており、英国政府や関係者への攻撃を続けてきた。
1979年、その矛先となったのがフィリップ殿下の叔父である、ルイス・マウントバッテンだった。休暇で訪れていたアイルランド北西部・ドネゴール湾で、IRA暫定派がヨットに仕掛けた爆弾によって死亡し、王室に衝撃を与えた。エリザベス女王の息子、チャールズ皇太子(後のチャールズ新国王)は、幼少期からマウントバッテンを慕っていたため、強く悲しみに暮れたという。
しかし北アイルランド問題は、1998年に英国とアイルランドの間でベルファスト合意が結ばれたことで、一応の和平が成立している。エリザベス女王は2012年、IRAの元司令官マーティン・マクギネスと握手をおこない、世界に向けて和解をアピールした。
フォークランド紛争・グレナダ侵攻・南アフリカ共和国問題
エリザベス女王は、80年代にコモンウェルスに関連する幾つかの問題を経験している。
南米大陸沖に位置して英国が実効支配しているフォークランド諸島にアルゼンチンが侵攻したフォークランド紛争(1982年)と、カリブ海に浮かぶコモンウェルスの一員、グレナダで政治クーデターが生じて、米国などが介入したグレナダ侵攻(1983年)、そして南アフリカ共和国問題だ。
特に南アフリカ共和国問題をめぐっては、前述した女王とサッチャー首相の立場性の違いが大きくクローズアップされた。1986年7月には、英・Sunday Times紙によって両者の確執が報じられている。アパルトヘイト政策の見直しを進めない同国への経済制裁に消極的なサッチャー首相に対して、女王が腹を立てる様子は、人気ドラマ『The Crown』でも描かれた。
以下で述べられるように、女王にとってコモンウェルス諸国との関係には、特別な想いがあった。
女王陛下はコモンウェルスを愛し、コモンウェルスは彼女を愛していた。彼女は治世中、歴史上のどの君主よりも多くコモンウェルスを旅して、私たちの家族が暮らすあらゆる場所を訪れた。
そのため、政治的見解は明らかにしないながらも、各国で生じている政治的問題に心を痛め、その情勢について深い見識と理解を有していたと言われる。
王室の危機(90年代)
90年代に入ると、王室に新たな問題が生まれ始めた。ゴシップやスキャンダル、それに伴う王室への支持率低下など、いわゆる王室の危機が持ち上がったのだ。
ダイアナ妃事件
中でも世界的な関心を集めたのが、ダイアナ妃をめぐる問題だ。
チャールズ皇太子とダイアナ妃(Queensland State Archives, Public domain)
ダイアナ妃は1961年、イギリスの名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢として生まれた。エリザベス女王の息子であるチャールズ皇太子とはわずか20歳となる1981年に結婚し、ウィリアム王子とヘンリー王子をもうけた。しかし1980年後半には、結婚生活や公務に関する考え方の違い、両者の不倫関係などから結婚関係は破綻、1992年には別居生活に入った。
ダイアナ妃による暴露本やインタビューへの出演、慈善活動への注目など、離婚後もダイアナ妃への注目は留まることがなかった。しかし報道は次第に過熱し、1997年にマスコミからパリで追跡されていた自動車が事故に遭ったことで、ダイアナ妃らが死亡する事件が起こった。(*2)
ダイアナ妃はすでに王室を離れていたため、王室は特別な声明の発表や半旗の掲揚をおこなわなかった。ところが、国内外から人気を集めていたダイアナ妃の悲劇的な死に「冷淡な王室と女王」という声が持ち上がり、国民からの反発が強まった。
実は、君主が亡くなった場合でも半旗を掲げる慣習はなかったのだが、国民からの批判を受けて、これまでのバッキンガム宮殿の伝統が破られることになった。ダイアナ妃の事件は、それほど国民からの不信感や王室への衝撃を生み出すものとなった。
(*2)ただし事故の直接的な原因は、ドライバーの飲酒運転だとされている。
王室の家庭内問題
この時期に王室を襲った混乱は、それだけではなかった。1992年には、エリザベス女王の長女・アン王女が離婚と再婚をおこない、次男・アンドルー王子も夫婦生活の破綻から別居に至っていた。こうした王室内の家庭内問題は、マスコミを通じて続々と報じられ、国民からの好奇の目と敬愛の低下に繋がっていく。
英国国民の "王室離れ" を象徴するのが、1992年に起こったウィンザー城の火災だ。この火災は、城に甚大な被害をもたらし、修復のために莫大な費用を要した。そこで問題となったのが、費用の捻出元だ。政府は税金を修復費に充てようとしたが、王室への支持が下がっていることから大きな反発が沸き起こった。
後述するが、王室の予算は独自財源を元にしており、普段の王室の生活に税金が投じられているわけではない。しかし、予算の仕組みが十分に周知されていないこともあり、王室関連の予算について国民の不満が大きくなる一因となった。
王室改革(2000-10年代)
王室の危機を受けて、エリザベス女王は改革に乗り出した。その内容は、大きく
- 王室の活動(慈善活動など)の広報
- 予算の透明性
- 王位継承
に分けられる。
王室の活動(慈善活動など)の広報
広報が目指したのは、開かれた王室というイメージの確立だ。現代の王室は、厳格な伝統を守りつつも、閉鎖性がなく親しみやすい存在でなくてはいけない。前近代の王が、宗教性や神秘性に包まれていた超自然的存在だったこととは対照的に、今や国民の支持がなければ王室は成り立たない。
そのことが露呈したのは、他ならぬダイアナ妃事件だった。民衆のプリンセスと呼ばれて、国民から愛されたダイアナ妃のイメージを支える1つが、慈善活動への熱心さだった。ハンセン病やHIV/AIDS、家庭内暴力、メンタルヘルス、地雷など幅広い社会活動に関与したダイアナ妃には、国民から多くの共感が集まっていた。
王室も様々な慈善活動をおこなっていたが、それらは公にしないことが "慎み深い" とも考えられていた。しかし、そのことが王室のイメージ悪化を招いたため、2003年頃から慈善活動に関する広報に力を入れ始めた。
女王の名前を関した様々な慈善活動はもちろん、自然保護への関心が高く、世界自然保護基金の初代総裁も努めたフィリップ王配や、青少年支援に熱心で、プリンス・トラストを通じて膨大な支援を行ってきたチャールズ新国王などの活動も周知された。
チャリティー活動を行うウィリアム皇太子夫妻(The Royal Household)
現在でも、その流れは維持されており、エリザベス女王にとっては孫であるウィリアム皇太子が、ロンドンの路上で、ホームレス支援の雑誌『ビッグ・イシュー』の販売員をする姿も話題となった。
予算の透明性
予算の透明性については、2011年の王室歳費法が挙げられる。
そもそも王室の予算は、政府から補助されるのではなく、王室が所有する不動産(クラウン・エステート)から得られた利益の一部を充てている。クラウン・エステートによる収益の大部分は、国庫にもたらされるが、うち一部が王室に還元される。つまり王室の暮らしは、国民の納税によって賄われているわけではない。
にもかかわらず、前述したように王室の広報が不十分であることも相まって、国民から不信感も持たれていた。そこで2011年に成立した王室歳費法では、クラウン・エステートによる収入を政府から独立させつつ、その予算に透明性を持たせた。
王位継承法
加えて、王位継承法も改正された。改正同法によって、性別に関係なく最年長の子どもが王位の継承順位で上位となり、カトリック教徒との結婚によって王位継承資格が喪失する従来の規定も廃止された。
こうした王室改革が実を結び、ダイアナ妃事件があった1997年に下落した王室支持率は、2000年代にかけて再び上昇し始めた。
ロンドン五輪への登場
開かれた、そして国民から愛される王室像を象徴するのが、2012年に開催されたロンドン五輪開会式に女王が登場したことだろう。
俳優ダニエル・クレイグ氏が演じる007こと英情報部員ジェイムズ・ボンドが、バッキンガム宮殿に現れ、女王をエスコートしながらヘリコプターでスタジオに向かい、開会式場にパラシュートで降下する(ように見える)演出は、大いに話題となった。
再び混乱へ?
このように王室への敬愛を獲得した2010年代だったが、2020年代にかけて再び暗雲が立ち込めてきた。
1つは、エリザベス女王の孫であるハリー王子と妻・メーガン妃をめぐって、再び王室がスキャンダルの対象になったことだ。2020年、米著名司会者のオプラ・ウィンフリー氏の番組で、夫婦が王室内における亀裂や人種差別発言を告発したことは、大きな話題となった。
エリザベス女王は「提起された問題、特に人種問題について懸念しています。一部、記憶と異なる場合がありますが、これらの問題は全般的に、とても真剣に受け止められており、家族間で個人的に対処される予定です」と声明を発表して、問題の沈静化を迫られた。
もう1つが、児童買春による有罪判決後に死亡したジェフリー・エプスタイン被告と、エリザベス女王の次男・アンドルー王子の関係が明らかになったことだ。エプスタイン被告は、ドナルド・トランプ前大統領や Microsoft 創業者のビル・ゲイツ氏、ビル・クリントン元大統領ら多くの著名人と交流関係にあり、彼らにも疑惑の目が向けられている。
アンドルー王子は、エプスタイン被告から未成年者を斡旋されて、未成年らと性的関係に及んだことが2014年に報じられ、2019年には公務停止、そして2022年には王室の一員としての公的地位を事実上全て失うに至った。
在位70年
こうした暗雲が立ち込めながらも、女王自身は高齢でありながら精力的に公務を続け、2022年2月には英国の歴代君主として初めて在位70年を迎えた。長年公務を支え続けたフィリップ王配は、2017年に単独公務から引退して、2021年に亡くなっている。
在位70年に際しては、英国作家マイケル・ボンドが描いたキャラクター、くまのパディントンと共演する動画も公開された。
このようにエリザベス女王は、1947年に宣言したとおり、その生涯を王室と英国、そしてコモンウェルスのために捧げた。
なぜ批判的な見方?
以上のように、女王が長きに渡ってその責務を果たしてきたことは間違いない。強い義務感と模範的な姿勢を持ちながら、チャーミングな一面を持っていた女王は、英国国民だけでなく世界中から高い人気を誇っていた。
しかし女王が亡くなった際、世界からは追悼の言葉だけでなく、それを拒否する姿勢も持ち上がった。そこにあったのは、女王のレガシー(遺産)の複雑さだ。女王の生涯を概観する中でも、70年間の英国王室が、旧植民地の歴史やコモンウェルスの混乱、北アイルランド問題、そして人種差別や性暴力など時代を反映する問題とともにあったことが分かる。この問題が、女王や君主制に対して批判的な見方を強めている。
君主制か共和制か
そもそも女王の存在は、君主制を意味している。一方で君主を持たない政治体制は共和制と呼ばれ、英国では「君主制か共和制か」という問題は、長らく議論されてきた。