⏩ 国を持たない最大の民族と呼ばれ、トルコ・イランなど世界に約4,000万人が居住
⏩ 国を持たない背景には20世紀イギリスの「砂漠の女王」の存在
⏩ 国際的にテロリスト、対テロの戦闘員両方で扱われる側面も
2023年頃から、埼玉県・川口市や蕨市を中心にクルド人と地元住民との衝突が度々取り沙汰されている。
3月にはさいたま市で、クルド人の伝統的な祭り・ネウロズが開催された。開催にあたり、安全確保が難しいとして一時公園の使用許可が出なかった他、当日も「主催者は、トルコ政府がテロ組織を支援していると指定した団体だ」などとして開催に抗議する人の姿が見られ、警察が警備にあたった。
各種報道では、難民認定申請中のクルド人が逮捕されたことや、日本の入管や難民制度、ヘイトスピーチに関わるケースなどが取り上げられ、それらがクルド(人)問題として取り扱われている(*1)。
だが、そもそもクルド人がなぜ国を持たないのか、あるいは、日本のクルド人団体との関係も取り沙汰されるテロ組織・クルディスタン労働者党(PKK)がどう生まれてきたかなど、クルド人問題に関わる論点はより複雑で多岐にわたる。
クルド人問題とは具体的に何を指しており、なぜ、いつから、どのように問題視されてきたのだろうか。
(*1)産経新聞は、「産経新聞や産経ニュースが取り上げたクルド人と地元との軋轢をめぐるニュースや、クルド人の犯罪についての事案」について、他の主要メディアがほとんど取り扱っていないと指摘している。
クルド人とは?
“クルド人” と言っても、クルドと名のつく国家があるわけではない。クルド人は、国を持たない最大の民族と呼ばれ、世界に約3,600万から4,500万人が暮らすとされている(*2)。
クルド人の居住地域は、クルディスタンとも呼ばれる(CIA World Factbook, Public domain)
クルド人は主に、トルコ南東部やイラク北部、シリア北部、イラン北西部などの山岳地帯に居住する。居住地域から分かるように、彼らの国籍は多様で、トルコ、シリア、イラク、イラン、アルメニアなどにわたる。
その多様さは言語や宗教でも同様だ。クルド語には主に3~4種類の方言があり、同じクルド語でも方言が違えば意思疎通は難しいとさえ言われる。宗教的には多数がスンニ派ムスリムだが、シーア派ムスリムやキリスト教、ヤズィーディー教に属する人もいる。
このように、クルド人は複数の国に所属し、その言語や宗教も多様だ。そのため後述するように、歴史上、国際社会におけるクルド人の認識や扱いも非常に複雑だと言える。こうした複雑さは、クルド人問題の複雑さとその解決に至る手段の多様化に反映されている。
では、クルド人問題とは具体的に何を指すのだろうか。
(*2)クルド人の起源についてはよくわかっていない。近代以前のクルドは各地の地方領主のもと、オスマン帝国やイラン系王朝の支配に服してきたという。古代から中世にかけてのクルド人については、森山央朗「イスラーム史のなかのクルド」(山口昭彦編『クルド人を知るための55章』(2019年、明石書店)所収に詳しい。
クルド人問題とは何か?
結論から言えば、クルド人問題が何を指すのかは専門家や当事者の間で解釈が分かれており、一意に特定することが難しい。さらに、トルコがそう認識してきたように、そもそもクルド問題なるものは存在せず、あるのは「セキュリティの問題」だとする解釈もある(太字は引用者による、以下同様)。
とはいえ、クルド人問題に関する指針がないわけではない。テュービンゲン大学のジェンギズ・ギュネシュ氏や、カディル・ハズ大学のアクン・ウンベル助教授の分析によれば、大きく4つの視点からクルド人問題を理解できる(*3)。
- クルド人の母国分断問題
- 人権問題
- テロの問題
- 外部の国家による人工的な問題
(*3)実際にはギュネシュ氏らは7つ、ウンベル助教授は10の視点をそれぞれ提示しており、本記事で指摘した以外にも、教育、インフラの欠如、劣悪な住居や労働環境から生じた問題などがある。さらに、トルコの民主主義の欠如や法の不適切さという問題も指摘されているが、クルド人はトルコ以外の中東諸国にも居住してきた。したがって、民主主義や法に関わるポイントは、トルコに限らず存在していると考えられるため、各論点の中で触れることとする。
1. なぜ国がないのか?
1つ目は、クルド人の母国分断問題であり、なぜ彼らが国を持たないかという問題とも言える。
前述した通り、クルド人は国を持たない最大の民族と呼ばれている。
これについて、上智大学の山口昭彦教授は、「『国を持たない』という言い方はあまり適切ではないと考えています」と指摘する。同教授によれば、現実には、クルド人の多くが自らの属する国の国民として生活しており、各々の国家に対する帰属意識もそれなりにある。
また、イラクでは2005年に採択された憲法により、同国の北部にクルド自治政府の存在が認められた。イラクでクルド語は、アラビア語と並んで公用語に指定されている。2017年には住民投票で 92% が独立を支持するなど、イラクからの分離独立は住民の間で圧倒的に支持されている(*4)。
2017年、クルド人の独立を支持するイラク北部の都市・アルビルでの集会(Levi Clancy, CC BY-SA 4.0)
とはいえ、クルド人の統一国家が存在していないことは事実だ。しかしこれは、彼らが独立を求めてこなかったという意味ではなく、歴史的にその試みが失敗してきたことを意味する。
(*4)イラクの中央政府はこの投票を違法だとしており、独立を認めていない。
独立の試み
前述した山口教授によれば、近代に入るまでクルド人は各地の地方領主のもと、オスマン帝国やイラン系王朝の支配に服していた。ただ、近代に入るとナショナリズム的な思想の流入により、クルド人の間でも独立を勝ち取ろうとする動きが見られる。
その動きは、第1次世界大戦(1914-1918)の前後に高まった。クルド人は、オスマン帝国に抵抗すれば、連合国(イギリス、ロシア、アメリカ、日本など)から独立国家の承認を得られると期待していた(*5)。実際に、イギリスとロシアは、戦略的な利害の一致からクルド人の抵抗を後押しし、独立を支援すると約束している。
たとえば、1914年のアルメニアで、ロシアの支援を受けたクルド人が、オスマン帝国に対する反乱を起こした。クルド人側は一時的に市を占拠したものの、帝国から派遣された軍隊によって数日で鎮圧されている。
この一件は当時、日本でも伝えられた。雑誌『外交時報』の「アルメニアにおけるクルド族の反乱」と題する記事は、「このような小擾乱は今後も必ず続発するだろう」としている(『外交時報』大正3年6月、第19巻第11号=第230号、58頁)(*6)。
とはいえ、クルド人は長い間、自らの居住地域の自治を事実上おこなっており、ナショナリズムと帝国の支配は両立していた。その背景として、オスマン帝国のクルド人地域は、イランの王朝(サファーヴィー朝)との緩衝地帯になっていたことが指摘されている。
地図中心のサファーヴィー朝(Safavid Empire)と地図左の橙色のオスマン帝国(Ottoman Empire)の間に挟まれているのがクルド人地域(Kurdistan)(Cattette, CC BY 4.0 DEED)
その後、第1次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、いよいよクルド人国家誕生の機運が高まっていくが、独立の試みは挫折を味わうこととなる。
(*5)ただし、クルド人の中には、オスマン帝国側で戦争に参加した人々もおり、彼らは第1次大戦中のアルメニア人虐殺にも加担していた。クルド人がこの大戦前後にオスマン帝国へ抵抗を強めた背景には、独立を求める以外に、自分たちもアルメニア人と同じ運命を辿るのではないか、とする恐怖があったと推察されている。
(*6)記事のタイトルや本文は、筆者が現代的な漢字・仮名遣いに改めている。
独立の挫折
20世紀において、クルド人は複数回にわたって独立国家を手にしかけたが、いずれも挫折を味わった。
象徴的な出来事は、1920年代の挫折だ。第1次世界大戦後、勝利した連合国(イギリス、アメリカ、ロシア、日本など)は、敗北したオスマン帝国の国境線を引き直すための交渉に入る。そして、1920年のセーヴル条約には、住民投票で多数が希望すれば、クルド人が独立国家(クルディスタン)を設立できるという主旨の条項が盛り込まれた。
1920年、民族自決を訴えたウッドロウ・ウィルソン米大統領が提案した国境線。中央に “KURDISTAN”(クルディスタン)の文字がある(the US Government, Public domain)
この頃、トルコ建国の父であるムスタファ・ケマル・アタテュルク(以下、ケマル)は、戦勝国による分割を警戒し、各地で抵抗運動を展開していた。
ケマル側の反英の機運を危険視したイギリス政府は、獲得していた委任統治領であるメソポタミア(後のイラク)とトルコの緩衝地帯としてクルディスタンを位置付けた。下図のように、オレンジ色のトルコと赤色のメソポタミア(イラク)の間にクルディスタンを置くことで、イギリスはケマルから自国の利益を守ろうとしたのだ。こうして当時の植民地大臣であったウィンストン・チャーチル主導のもと、クルド人独立へ向けた議論が進められた。
セーヴル条約で決まった国境(Zero0000, CC BY-SA 4.0 DEED)
しかし、セーヴル条約は実際には発効せず、1923年のローザンヌ条約で現在のトルコ国境が画定する。日本も調印した同条約には、クルドに関する条項が盛り込まれず、クルドの独立国家構想は立ち消えになった(*7)。そのため、現在でも日本クルド文化協会は政府に対し、同条約からの脱退を求めている。
ローザンヌ条約で決まった国境。クルディスタンの文字はない(Wikimedia Commons, Public domain)
クルド人の独立国家設立に前向きだったはずのイギリスに、何が起きたのだろうか(*8)。
(*7)とはいえ、セーヴル条約でも、連合国の利益を損ねないようクルディスタンは実情よりも狭く規定されていた。そのため、仮に同条約が発効しても、クルド人地域の分断は不可避だったと言われている。
(*8)ローザンヌ条約成立の背景には、ケマルの手腕もあったと言われる。ケマルの外交戦術やトルコ内部の闘争については、小笠原弘幸『ケマル・アタテュルク』(中公新書、2023年)に詳しい。