シリコンバレーの血液検査ベンチャー・Theranos(セラノス)を創設し、同社のテクノロジーやサービスに関する詐欺罪などに問われていたエリザベス・ホームズ被告は今年1月、有罪評決を受けた。
たった数滴の血液から疾患の可能性を診断するという画期的なテクノロジーや、ホームズの卓越したカリスマ性は、当時アメリカ中のメディアや投資家から注目を集めた。新たなサービスが絶え間なく生まれるスタートアップの聖地で、ホームズ被告のアイデアは莫大な投資を獲得し、彼女はその過程で45億ドル(約5,000億円)にものぼる巨額の資産を築いた。
しかし Theranos の「画期的技術」のほとんどが虚偽であると判明すると、彼女と Theranos の経営陣はその罪を問われ、長期にわたる訴訟に突入していった。
世界から注目を集めたTheranos訴訟の争点とは一体何だったのか?そしてその評決は、スタートアップ・エコシステムの未来について、何を示唆するのだろうか?
次のスティーブ・ジョブズ
Theranosは、最盛期には企業価値およそ90億ドル(約1兆円)とも評価されたヘルステック企業だ。
創業者のエリザベス・ホームズ被告は、1984年ワシントンDC生まれ。入学翌年の2004年にスタンフォード大学を退学して、Theranosを立ち上げた。彼女がTheranosを設立して掲げたビジョンは、早期発見により主要な疾病から人々を守ることだった。
設立同年に600万ドルを調達すると、やがてホームズ被告はその壮大な野望と投資家からの期待から、シリコンバレーの未来ともてはやされるようになる。
ホームズ被告は徹底した秘密主義を貫き、Apple創業者の故スティーブ・ジョブズを真似て、常に黒のタートルネックを身に纏っていた。さらに黒のベストを着るために、社内の室温を18度前後に保っていたという。
こうした経営スタイルや外見から、Theranosは「ヘルスケアのアップル」と形容され、2015年には米Inc紙によって「次のスティーブ・ジョブズ」と称賛された。
数滴の血液で疾病を診断?
Theranos の血液検査テクノロジーは、彼らの説明によれば、人の指先から採取した数的の血液のみで、癌や心臓病などに関わるメジャーな疾患の有無を判断することが可能というものだ。
具体的には、患者の指先から採取した数滴の血液を自社で開発したカプセルに保存した上で指定のセンターに送付し、Theranos が独自に開発した診断機器を用いて、これまでの科学が実現しえなかったスピードで検査結果を算出するとしていた。
従来の血液検査(*1)が多くの採血量を必要としていたことを踏まえると、これはヘルスケア領域において重大なイノベーションだった。「エジソンマシン」と呼ばれる同社の技術は、より安価で正確な検査技術であると謳われ、ホームズ被告は、同技術によって「誰もが早すぎる別れをしなくて済む世界」が実現すると述べていた。
(*1)なお、少量の血液のみで十分な検査ができるという技術はその後実現している。イスラエルに拠点を置くSight Diagnosticsは、2滴の血液で血液中の赤血球数と白血球数、血小板数などを調べることができる検査機「Olo」を開発した。
事業の拡大
Theranos はその独自のテクノロジーの提供を拡大する過程で、多くの企業や研究機関と協働関係を拡大した。保険会社 Capital Blue Cross は、Theranos による検査を患者が利用できるように許可してペンシルベニアにおけるテスト提供を拡大。薬局チェーン Walgreens や大手スーパーマーケット Safewayは、Theranos と連携した検査センターの設立に同意した。
さらに、2015年には Theranos が起草した法案がアリゾナで通過し、医師の診断書がなくても患者が血液検査を受けることが可能となった。さらに米食品医薬品局(FDA)は、Theranos 独自の血液採取装置「ナノテイナー」が単純ヘルペスウイルス(HSV)検査(*2)に使用されることの安全性を認めた。
こうしてホームズ被告は着々と事業を拡大し、Theranosは社会的な評価を得ていった。
(*2)単純ヘルペスウイルスは、皮膚や口、唇などの部位に、液体で満たされた、痛みのある小さな水泡が繰り返し発生する感性症を引き起こす。
正当性に対する疑惑
ところが2015年、Theranosの血液検査テクノロジーの正当性に対する疑惑が浮上した。
米国食品医薬品局(FDA)は調査官を Theranos に送り、同社の施設について検査を実施。同年に米国保険福祉省(HSS)は、Theranos の検査に重大な欠陥があることを指摘している。
また、Wall Street Journal 紙のジョン・カレイロウ氏は、Theranos が提供する240種類の検査のうち、自社技術「エジソンマシン」によるものがたったの15種類のみで、残りはシーメンスなどから購入した従来の血液検査機器を用いたものだとする衝撃の事実を明らかにした。
MIT Technology Review 誌は独自調査に基づき、Theranos の技術を「2015年最大の技術的失敗」のひとつに認定した。2016年、政府による100ページを超える調査結果レポートには、Theranos の基本的なオペレーションの脆弱さ、現場スタッフのスキル不足、信憑性に欠ける検査実態など多数の問題が克明に記された。このように Theranos に関する膨大な調査結果や報道が出るにつれ、Theranosの技術に対する信頼は急速に崩壊していった。
これらを受けて米国証券取引委員会(SEC)は2016年3月、Theranosとホームズ被告、そしてラメシュ・バルワニ元社長を詐欺容疑で提訴した(*3)。SECとの間では即日和解の合意に至ったものの、同被告は会社の経営権を剥奪された。
さらに2018年6月、ホームズ被告とバルワニ被告は米国司法省によって詐欺罪(*4)2件と共謀罪(*5)9件の計11件の容疑に問われた。経営者であったふたりが Theranos 社の財務計画と技術について事実に反する主張をおこない、投資家、医師、および患者を欺いたとするものだ。
(*3)なお、ホームズとバルワニ両被告は、長年にわたり恋愛関係にもあった。
(*4)他者を騙して利益を得る等の行為に対する罪。日本における詐欺罪は、刑法246上にて詳細に定義されている。
(*5)特定の犯罪を実行することを具体的に合意した段階で成立する犯罪。14世紀の英国で、複数の者の結合による重罪の誣告の企てに対して国王の布告により処罰したことに起源する。日本では2017年の第193回通常国会で成立した「改正組織的犯罪処罰法」にいわゆる共謀罪の要素が含まれるという見方があり、市民の思想の自由や基本的人権を制約する懸念を指摘する声もある。
詐欺か、失敗か
ホームズ被告は意図的に詐欺に着手したのか。それとも、単なる経営上の失敗だったのか。この論点が、Theranos 訴訟における議論の中心となった。
検察側はホームズ被告による「詐欺の意図」を強調
検察側は、ホームズ被告が Theranos の技術的な不完全性を十分に理解していながらも、投資家らに対して虚偽の説明をおこなったと主張した。それを証明するため、スマートフォンのメッセージ履歴やメール、社内文書が証拠として提示され、ホームズ被告が掲げる同社のヴィジョンと実態が大きく乖離していることを強調した。
初公判で検察側は、ホームズ被告が著名投資家たちを「騙して」、合計7億円ドル(約800億円)を自社に投資させたと主張した。Theranos の投資家リストには、元国務長官のヘンリー・キッシンジャー氏、メディア界の大物ルパート・マードック氏、元国防長官ジェイムズ・マティス氏など多数の著名人が名を連ねていたことも、その多額の損失とともに注目を集めた。