哲学博士号、左派リベラル、日課は気功と瞑想。そう聞いたとき頭に浮かぶのは、一体どのような人物像だろうか。少なくとも、世界有数のユニコーン企業を率いる億万長者のイメージでないことだけは確かだ。
2020年6月、Bloombergは、パロアルトのデータ解析企業であるPalantirがIPOを視野に入れ、米証券取引委員会への申請書類 (S-1) を準備中であるという関係者筋の情報を伝えた。このPalantirの共同創業者にしてCEOであるアレックス・カープの経歴は、変人揃いのシリコンバレーの中でもとりわけ異彩を放っている。リベラルな知的環境の下で哲学博士号まで取っておきながら、データ解析企業を率いて米政権の軍事作戦に関与する――こうした一見矛盾する要素の集合からなる彼のキャリアは、その性格を部外者にはほとんど理解困難なものとしている。
本人があまりメディアに姿を現そうとしないことも相まって、カープの素顔は今なお不明な点が多い。彼の持つ独身主義の信条や、社員とともに太極拳のエクササイズをおこなう姿が好奇の目で報道されるに付け、そのミステリアスなイメージは深まるばかりだ。
しかしながら、関係者の証言や傍証を手がかりとすることで、彼の生涯を間接的に窺い知ることは可能である。哲学研究者から資産管理コンサルタント、そして起業家という一見捉えどころのない経歴を歩んできたカープの思考を丹念に追うことで浮かび上がってくるのは、彼がその多面的なキャリアの中で、民主的な西洋社会に内在するパラドックスを解き明かそうとする姿勢を一貫して保ち続けたという事実である。このことを検証するため、まずは彼の生い立ちを辿ることから始めよう。
リベラルな少年時代
アレックス・カープは本名をアレクサンダー・キャドモン・カープという。1967年10月2日ニューヨークで生まれた彼は、米国独立の象徴的な都市であるフィラデルフィアで少年時代を過ごした。 父ロバート・カープは1941年生まれ、小児科医であり、教授として複数の大学で教えた経歴を持つ。
息子の言によれば「アメリカに統合されたユダヤ人」であり、かつ「世界一ドイツ語を喋れないドイツ人」だった。 父方の祖父は、東欧のウクライナ・ポーランド間にまたがるガリツィア地方出身で、ドイツ系のルーツを持つユダヤ人だった。父の方針により、毎年ユダヤ系のサマーキャンプで休暇を過ごしたカープのアイデンティティには、ユダヤ人としての陰影が深く刻まれることとなる。
他方、母のリア・ジェインズ=カープはアフリカ系であり、バプテスト教会に所属する牧師の娘として1940年に生まれた。ルート66の途中に位置するイリノイ州の田舎町ポンティアックで育ち、ハイスクール時代にシカゴに上京した。
大学卒業後、リア・ジェインズはロバート・カープと結婚。子育てが落ち着いた後、テンプル大学に再入学し美術を専攻、大学院を修了する。前衛的な作風の写真家として身を立てた彼女は、1960~80年代にかけてガムプリントやエッチングといった特殊な現像の技法を積極的に取り入れ、米国各地の写真展にしばしば作品を出展した。
アフリカ系のルーツを持ち、ユダヤ系の夫との間にアレックスを含む2人の息子を儲けた彼女は、自らのライフヒストリーを芸術で表現した。その展覧会を取材したChicago Tribuneの記事には、リア自身による次のような言葉が掲載されている。
私にとって写真とは、経験を保存するための手段なのです。……私は黒人であり、女性であり、母親です。それら全てが『私』なのであり、いずれも手放すつもりはありません。
毛髪の束やボタン、パーティーの引き出物といった日常生活の一齣を散りばめ、米国社会で黒人の置かれた状況に取材する作風は、彼女のアイデンティティを前面に押し出したものである。
ちなみに、リアは息子たちを題材とした作品も残している。「私の二つの青写真、アレックスとベン」(1985年9月)と題されたその作品では、釣りをして遊ぶ兄弟の手のひらをブループリントで現像することで、宇宙空間や子宮とへその緒といったイメージが多層的に表現されている。
ここで言及されているベン・カープこと、アレックスの弟オリヴァー・ベンジャミン・カープは、2020年現在、なんと埼玉に住んでいる。テンプル大学現代アジア研究所 (ICAS) および早稲田大学で研究員を務める傍ら、都内で英会話教室を営んで生計を立てているようだ。
ベン・カープはボルティモアのガウチャー大学を卒業後、東海岸の名門校であるイェール大学大学院で修士号を取得した。研究テーマは、米国公民権運動の指導者であるW・E・B・デュボイスの日本観だった。また、イェール大学在学中にはユダヤ人の親睦団体であるEliezer(現Shabtai)の設立に携わるなど、両親から受け継いだ重層的なアイデンティティが彼の中で大きな位置を占めていたことが窺える。
ロバート・カープのFacebookに掲載された家族写真
アレックスとベンの兄弟は、少年時代を知的・文化的に恵まれた環境で過ごした。カープ家にテレビがなかったという事実は、両親の教育方針を端的に象徴している。ヒッピーの過去を持ちリベラルな精神性を有する両親に連れられ、息子たちはレーガン政権の新自由主義路線に反対するデモにほぼ毎週末出向いたという。
そうした家庭環境の中、アレックス・カープ自身は地元のハイスクールで優秀な成績を修め、SATで高いスコアを得たのち、フィラデルフィア郊外のハバフォード大学に進んだ。リトル・アイヴィーの一校に位置付けられるこの名門校を1989年に卒業すると、カープは西海岸へ渡り、スタンフォード・ロースクールに進学する。
ティールとの出会い
故郷のフィラデルフィアを離れてベイエリアに移り住み、大学の運営するクロザース寮に入居したカープは、そこで同じ講義に出ていた一人の学生と友人になる。その人物こそピーター・ティール。後にPayPalを創業、Facebookの大口投資家となり、シリコンバレー・インナーサークルの「首領」(ドン)と呼ばれることになるティールも、当時は法曹を目指す秀才学生の一人に過ぎなかった。
今日、ドナルド・トランプ支持者として知られるティールは、学生時代から保守的な思想傾向を有していた。とりわけ、1980年代以降盛んになったポリティカル・コレクトネスの傾向には、明確に批判的な立場を取った。
ティールがスタンフォード大学に在籍していた1980年代当時、米国では学生運動とヒッピーカルチャーの余波を受けて多文化主義が隆盛し、リベラルな風潮が大学を覆っていた。フェミニストや性的少数者、エスニック・マイノリティによる平等主義の要求に対してティールは懐疑的な姿勢を表明し、学生新聞The Stanford Reviewを創刊するなど、活発な言論活動を行った。
そんなティールに対し、リベラルなカープはしばしば「野獣のような」論戦を挑んだ。ユダヤ系およびアフリカ系というマイノリティの出自を持つカープにとって、ティールの右派的な主張が受け入れ難いものであったことは想像に難くない。
ただし、二人の関係は険悪なものとは程遠かった。カープは後年「対立こそが二人の関係を魅力的にした」と語っている。学部時代に哲学を修め、ルネ・ジラールのミメーシス(模倣)理論に傾倒するティールはカープと馬が合ったようで、二人はしばしば知的な「スパーリング」を楽しんだ。
「ピーターは親友です。ただ、政治に関しては何一つとして意見が合ったことはありませんが」と語るカープの言葉は、立場を異にしながらも尊敬しあう二人の知的に成熟した関係性を物語っている。
とはいえ、彼らの中に起業という選択肢は、この時点ではおそらくまだ存在しなかった。二人の人生が再び邂逅するのは、それから十余年を経た後の事である。ロースクール卒業後、ティールはアトランタの控訴裁判所に最初の職を得、カープもまた独自の道を歩むこととなる。
哲学を志して
1992年、ロースクールを修了したカープは法曹の道に進むことはなく、代わりに哲学の基礎研究へと進路を定めた。カープは大西洋を渡ってドイツ・フランクフルトに向かい、20世紀を代表する社会哲学者、ハーバーマスの門を叩いた。
ユルゲン・ハーバーマス。近代民主主義の社会学的分析を専門とし、『公共性の構造転換』(1962) 等の著作で世界的に名を知られる。その根源的な関心はヨーロッパ近代文明の本質を探究することにあり、公共圏におけるコミュニケーション的行為の可能性を信じる良心的知識人でもあった。
この偉大な哲学者に、未来のPalantir社CEOは何を求めたのだろうか。カープが自らの学生時代についてメディアで語る機会は少ない。数少ない手がかりは、2009年に「あなたはなぜ哲学を専攻したのか」とのインタビューに答えたカープの発言だ。
僕がPalantirの共同創業者を引き受けたのと同じ理由ですよ。どちらも非常に大切な問題を扱っているからです。何かを知るとはどういうことなのか? 意思の疎通とは? 西洋社会の基盤は何なのか?(赤坂桃子訳)
コミュニケーション、ヨーロッパ、近代社会――我々はここにハーバーマス思想の片鱗を読み取ることができるだろうか? いずれにせよ、今でこそ言及されることは少なくなったものの、彼の前半生にとって哲学は極めて大きな位置を占めていた。かくして青年カープはドイツへと向かう。
フランクフルトへ
26歳のカープは、バイエルンのシュタルンベルクに居を構えていたハーバーマスの許を訪ね、博士課程への進学について相談した。1929年生まれのハーバーマスは当時既に高齢で、退官を間近に控えていたこともあり、カープに同僚のカロラ・ブレーデを紹介する。
社会心理学を専門とするブレーデは、精神分析のアプローチによって個人の社会化を分析する観点から数多くの論文を発表している。労働社会学に関心を寄せる彼女は、近年の功利主義的傾向には明確に批判的なスタンスを取った。
とりわけ彼女は立論に際し、今日の福祉国家における賃金労働者の脆弱性を問題視する社会学者、ロベール・カステルの所説を参照している。カステルによれば、市場経済の浸透は社会関係の希薄化、雇用の不安定化を招き、労働者はセーフティーネットを失いつつある。そうした議論を踏まえるブレーデは、まさに良心的知識人の集団である「フランクフルト学派」のリベラルな精神を体現する研究者であったと言えよう。
カープはそんなブレーデを指導教員とし、フランクフルト・ゲーテ大学の博士課程に登録した。今日一般的に信じられている「ハーバーマスに師事した」という逸話はややミスリーディングだ。だがいずれにせよ、カープはフランクフルト学派のリベラルな知的環境の中で研究を開始した。このとき彼は、いずれ自分が米国西海岸へと戻り、悪名高い「新自由主義」を象徴するテック企業を経営することになるとは微塵も思わなかったに違いない。
「アレックスは才能に恵まれた青年でした」とブレーデは『ディ・ヴェルト』紙のインタビューにおいて語っている。彼女によれば、カープは当初ドイツ語の習得に苦労しており、生活も質素だった。しかしながら、ハーバーマスの紹介でチューターの仕事を斡旋され、またドイツでできた友人の助けもあり、すぐに流暢なドイツ語を、さらにはフランス語をも操るようになった。
加えて、当時カープはニクラス・ルーマンにもコンタクトを取ろうとしていたという。ルーマンは社会学の一般理論構築を目指したことで知られ、ハーバーマスと並ぶ現代社会学の大家だ。「彼はビッグネームを選好するのですよ」とはブレーデの証言である。
また当時、カープは母語である英語ではなく、ドイツ語で博士論文を書くことにこだわった。それは自身のルーツからかもしれないし、学問的誠意からかもしれない。 カープ自身は後年、留学先にドイツを選択した理由について「純粋に学問的な理由です」と述べている。あくまで印象論の域を出ないものの、カープは研究テーマに自らのアイデンティティを投影させたというより、普遍的な文明論に取り組むにあたって必要な言語としてドイツ語を選択したという側面が強いように思われる。
以上の断片的なエピソードから浮かび上がるのは、学問的野心に満ちた実直な青年の人物像だ。決して起業家のそれではない。しかしながら、ここにこそ彼の生涯を貫く問題関心を読み取ることができる。それは、「民主的な西洋社会に内在する矛盾とは何か」という問題だ。
担当:長野壮一