ホロコーストという問題
ドイツに渡り、フランクフルト・ゲーテ大学の博士課程に登録したアレックス・カープが最初の研究テーマに選択したのは、ナチスによるユダヤ人迫害の問題だった。研究テーマとしてはありふれたものに見えるが、一体この主題の何が未来のPalantir創業者の心を捉えたのだろうか。
指導教員のブレーデいわく、「カープは当初から、何が現在のドイツ人を構成するのかという問題に関心を持っていました」。この証言が示す通り、いわゆる「ホロコースト」の歴史は、現在までヨーロッパ社会にとって極めてセンシティブな問題であり続けている。なぜならそれは単なる戦争犯罪にとどまらず、西洋文明が行きついた先で生じた、自らの基盤を揺るがす本質的な問題であるからだ。
ナチスによるユダヤ人絶滅政策の思想的基盤――反セム主義、科学主義、人種主義――は、いずれもヨーロッパ社会の中で歴史的に形成され、19世紀の近代化とともに市民権を得た理念である。そうした近代ヨーロッパ文明の生み出した価値観が不幸な形で結びついた結果として起こった悲劇こそが、人類史上に類例のない犯罪、ホロコーストなのである。
カープが博士課程に登録した90年代当時、ドイツの学術界を席捲していたのは「ゴールドハーゲン論争」と呼ばれる問題である。当時ハーバード大学准教授だったダニエル・ゴールドハーゲンは著書『普通のドイツ人とホロコースト』(1996) において、センセーショナルな学説を提起した。第二次大戦中のユダヤ人迫害はナチスだけの罪ではなく、以前よりユダヤ人に対する差別意識を広く共有し、自ら進んでホロコーストに加担した一般大衆にも責任があるというのだ。
ダニエル・ゴールドハーゲン(2011年)(Blaues Sofa(CC BY 2.0))
もちろん、ナチス指導層やヒトラー個人のみならず「普通のドイツ人」にもホロコーストの責任を問う主張そのものは、ハンナ・アレントによる『イェルサレムのアイヒマン』(1961) をはじめ、戦後ドイツ思想の一部で従来から見られた。しかしながら「ドイツ人なくしてホロコーストなし」という挑発的なテーゼを掲げるゴールドハーゲンの主張は、「ドイツ人とは何か」という問題にまで踏み込む論争誘発的なものだった。
ゴールドハーゲンの主張はドイツの学術界で一定の評価を受け、カープの私淑するハーバーマスも「その叙述の力強さと倫理的な価値により、ドイツ連邦共和国の公衆に大きな衝撃を与えた」として賛意を示している。この学説は、ドイツの学術界において賛否両論の激しい論争を巻き起こした。果たしてヒトラーやナチスだけでなく「普通のドイツ人」、すなわち我々一般大衆に罪はあるのだろうか? また、こうした主張はナチスの犯罪を矮小化させる恐れはないのだろうか?
アレックス・カープはこの難問に、構造機能主義に基づく社会学理論を用いて応答を試みた。カープはゴールドハーゲンの主張の有効性を一定程度認めるものの、当時ドイツで一般的に流布していた反ユダヤ主義と、ナチス特有の「抹殺的」反ユダヤ主義は区別されなければならないと主張する。なぜなら、日常生活における意味の構造と、文化的に所与な事柄とは区別される必要があるからだ。
「隠語、攻撃性、文化」
カープはこうした着想を膨らませることで、より哲学的に普遍性を有する問題を考察した。彼の博士論文は「生活世界における攻撃性:隠語、攻撃性、文化の連関の記述によるパーソンズ『攻撃性』概念の拡張」というやや難解な表題が付されている。
一体何を言っているのだろうか? カープの立論の出発点には、同時代の知的状況の欺瞞を指摘したテオドール・アドルノの告発がある。
テオドール・アドルノ(1964年)(Jeremy J. Shapiro(CC BY-SA 3.0))
フランクフルト学派の精神的支柱の一人に位置付けられるアドルノは、理性や科学主義の孕む暴力的な性質を指摘した哲学者として知られている。このような近代の啓蒙精神に対する懐疑的な姿勢は、今日まで続くフランクフルト学派の基礎的なスタンスである。
アドルノによれば、戦後ドイツはナチスの犯罪を反省したにもかかわらず、言論空間では戦前と変わらない主張がしばしば繰り返されている。しかしながら、その主張は「隠語」(ジャルゴン)、すなわち本来の意味内容とは独立した抽象的なニュアンスを持つような用語を通じて表現されることで、ナチスとの連関が巧妙に隠蔽されているという。アドルノはその著書『本来性という隠語』(1964) において、こうした欺瞞に満ちた知的状況を厳しく批判している。
カープはこうしたアドルノの問題意識を発展させ、なぜ「隠語」が攻撃性を帯びるのか、またそうした状況の文化的背景は何かといった問題を考察している。具体的な分析対象としてカープが選んだのは、「ドイツは過去について謝罪しすぎている」と述べて物議を醸した作家マルティン・ヴァルザーによる1998年の講演である。
その際にカープが手引きとするのは、米国の社会学者タルコット・パーソンズによる「攻撃性」の概念である。文化的な一体性から社会を捉えようとするパーソンズの方法論は、アドルノの哲学における「隠語」「攻撃性」「文化」の連関を説明するのに適しているとカープは考えたのだ。
渡独からおよそ10年、カープの問題意識はここに最初の結実を見た。西洋社会の欺瞞を社会学理論によって説明するこの論文は、フランクフルト学派の根本的な問題意識を受け継ぐと同時に、「自由な開かれた社会に内在するパラドックス」という彼の生涯を貫く問題と正面から格闘するものだった。
2002年、カープは「優」(magna cum laude) の成績でフランクフルト・ゲーテ大学より博士号を取得した。この事実は、彼の知的能力が評価され、欧州エリートのインナーサークルにおいて受け入れられたことを意味する。
しかしながら、カープが大学教員のジョブマーケットに参入するというありふれた進路を選択することはなかった。彼が選んだのは誰もが予想しなかったであろう道、すなわち起業である。
担当:長野壮一
資産管理会社の起業
カープにとって最初の起業は、2002年に設立した資金管理会社のキャドモン・グループ(Caedmon Group)社だった。キャドモンという名前は、7世紀頃の英国詩人として知られているが、カープのミドルネームでもある。
「民主的な西洋社会に内在するパラドックスとは何か」という問いを胸に秘め、学問的野心に満ち溢れた青年が、なぜ資産管理会社を設立したのだろうか?当時35歳のカープが、その真意を語った資料は存在していない。しかし後に西洋社会のアクチュアルな問題を事業化する彼が、学問的な問いに根本から情熱を失ってしまったとは考えづらい。
思想だけでなく、資本主義の中に西欧社会の根源的な問題意識を見ようとしたのか、あるいはアカデミアでは彼の知的好奇心を満足させる答えが見つからなかったからかは分からない。しかしこの時期があったからこそ、学問的な問いと事業としての成功を結びつけるPalantirが生み出されたと言っても過言ではないだろう。カープは、資本主義を通じて西欧社会への洞察をますます深めていく。
2004年当時のキャドモン・グループ社のウェブサイトには、ロンドンとニューヨーク、フランクフルトに拠点があること、そして日本やアイルランド、スウェーデンのプロジェクトに関わっていたことが記されている。サイトには、カープが「ヨーロッパおよび北米のクライアントに10年以上にわたってアドバイスをおこなってきた」上で、「米国やヨーロッパにおける知的財産の商業的価値の評価を専門としている」ことも説明されている。2004年から10年前といえば、カープはまだフランクフルトに来たばかりで、サイトに書かれているプロフィールが真実かは疑わしいことを付け加えておくべきだろう。
当時の連絡先には、ニューヨークにあるレンタルオフィスの住所が記されていたが、カープ自身はロンドンを拠点としていた。現在でも残っている同社のウェブサイトには、ロンドンのテムズ川にかかるブラックフライアーズ橋のすぐ近くにあるシェアオフィス「ハミルトン・ハウス」の住所が、オフィスとして記載されている。自殺の名所とも言われたブラックフライアーズ橋だが、ロンドン証券取引所まで徒歩10分程の、国際的金融街であるシティ・オブ・ロンドンのど真ん中に位置している。
現在のハミルトン・ハウスの様子(Google Map)
現在のハミルトン・ハウスの様子
カープがキャドモン・グループ社を設立した原資は、祖父からの相続財産だったと言われているが、その実態はよくわかっていない。カープが株式投資に成功しはじめると、その噂を聞きつけた人々が、彼にアドバイザリーを依頼するようになり、いつの間にか会社が設立されていたというのが実態のようだ。
CEOだったカープと共に、マネージングパートナーとしてキャドモン社を動かしていたのが、メリーネ・フォン・ブレンターノという女性だった。彼女は、オックスフォード大学モードリン・カレッジを1991年に卒業した後、ハーバード・ビジネススクールから経営学修士号、ケネディ・スクールから行政学修士号を取得した才女だった。
金融やメディア業界に詳しい人物であり、カープと同じくドイツ語と英語に長けており、2000年からキャドモン社で働きはじめた。2012年1月からは彼女もPalantir社に移っており、カープからの信頼が厚かったことが伺える。
彼女のメディア露出は多くないが、2013年のWired誌において「防衛・諜報機関はテクノロジーを活用して、世界中で情報共有をおこなっており、金融業界にもこうした流れが来るだろう」と自社の宣伝をしている。また2019年の自社ブログでも、移民の強制送還で使用されるテクノロジーを移民・関税執行局(ICE)に提供したことでスポンサーを解除された女性向けカンファレンスへの抗議レターに、事業開発担当として名前を連ねており、依然としてPalantir社で重要な地位にある人物だ。
2004年、Palantirの設立
カープは、学生時代にピーター・ティールと出会わなければ、哲学を学んだ風変わりな資産管理会社の代表として人生を過ごしていたかもしれない。しかし、その転機は2004年にやってきた。
Palantirを設立したのは、後にCEOとなるカープではない。ティール、スタンフォード大学でコンピュータ・サイエンスを学んでいたジョー・ロンズデール、スティーブン・コーエンという2人の若者、そしてPayPalでエンジニアを努めたネイサン・ゲッティングスだった。
ティールは、2003年の5月頃には新しい会社の構想を抱いていた。自身の設立したPayPalが2002年2月15日に株式公開され、その年10月にeBayへと15億ドルで売却された後、既に新しいプロジェクトを構想しはじめていた。彼はClarium Capitalというヘッジファンドをつくった他、2001年の同時多発テロ後の世界についても考えはじめていた。
ティールには、2つのヴィジョンがあった。1つはPayPalにおいて詐欺や不正送金を追跡するアプローチは、テロやヘッジファンドなど幅広い業種に応用可能であること、もう1つはテロ後の世界で議論されていた「プライバシーか、国家の安全保障か」という二項対立ではなく、ソフトウェアによって「市民の自由を維持しつつ、テロを減らすことができる」という信念だ。
その会社の名前は、映画化された世界的小説『ロード・オブ・ザ・リング』に登場する、覗き込むと遠方を見ることができる暗い水晶から着想を得て、Palantirとされた。
このヴィジョンを実現するためのエンジニアは、PayPalとスタンフォード大から十分にかき集められた。当時わずか21歳だったジョー・ロンズデールは、学生時代にPayPalでインターンをしており、ティールからの信頼も厚かった。同じく21歳のスティーブン・コーエンの能力も疑いなく、彼はわずか8週間でPalantirの核となる製品のプロトタイプをつくりあげた。
しかし問題は、20歳をわずかに超えたばかりの若者が、政府や金融業界向けに営業できないことだった。 そこで、Palantirの初期メンバーたちは、技術的なバックグラウンドがないにもかかわらず、CEOとしてカープに白羽の矢を立てた。その理由を、ロンズデールはこのように語っている。
アレックス・カープのことは、私たちがClarium Capitalの仕事で人に会うのを手伝ってくれていたので、よく知っていました。彼は次第に、Palantirに多くのアドバイスをしてくれました。彼の知識は、Palantirの初期にとって本当に重要でしたし、ハーバーマスのもとで優秀な哲学専攻の学生であった彼のネットワークも非常に価値がありました。彼はヨーロッパの様々な富裕層(多くは一流の哲学学徒を尊敬していた)と慈善活動にも取り組んでいました。
カープは、富裕層やその友人をClarium Capitalの投資家としてピータ・ティールに紹介していました。またこうした人々が、Palantirの初期において重要となる、世界の様々な諜報機関や国防機関についてコネクションや知見を持っていることもわかってきました。
ピーターは、21歳ではないCEO(あるいは、21歳であってもスティーブンや私ではない人)が望ましいと思っていました。私たちは、ワシントンDCにいる防衛産業のリーダーたちから面会を拒否され続けていましたし、彼らと文化が相容れないこともわかっていました。
スティーブンと私は相談して、Clarium Capitalの投資家がいることを口実に、カープへ会いに行きました。夜遅くまで歩き、会社について話し合い、売り込んだのです。彼はCEOを経験したことはありませんでしたが、彼の存在が必要なことは明らかでした。後にピーターに話をすると、彼は驚いて、アレックスが本当に受け入れてくれるのかを尋ねましたが、素晴らしいアイデアだと同意しました。彼が驚いたのが、私たちが年長者を経営者として招き入れたことだったのか、カープ博士がCEOになることだったのかはわかりませんが。
アレックスは学び続け、私たちやPalantirにいる多くの人々にとって、本当に重要なメンター、そして友人となりました。私たちは全ての戦略で見解が一致していたわけではありませんが、彼は私が今まで働いた中で最高のCEOです。
Wall Street Journal紙などは、ピーター・ティールがカープにPalantirの構想を話したことで、同社が生まれたかのように述べているが、ロンズデールによればそれは間違いだ。21歳の若者自身が、15歳も年上のカープを仲間に引き入れており、自身に満ち溢れたスタンフォードの学生から見ても、カープの才能や見識がいかに抜きん出ていたものであったかを物語っている。
ロンズデールらは、カープに技術的なバックグラウンドがないにもかかわらず「複雑な問題であっても即座に把握して、エンジニア以外の人に翻訳するカープの能力に衝撃を受けた」と言われているが、あながち誇張ではないだろう。ワシントンの有力者や東海岸のMBA取得者よりも、カープは圧倒的にビジョナリーで、賢かったのだ。
カープの博士論文を思い起こせば、彼がビジネス経験が浅く、技術的なバックグラウンドがないにもかかわず、Palantirに的確な人物であることが即座にわかる。民主的な西洋社会に内在するパラドックスとは何か? ― Palantirが解決しようとしていたのは、まさにカープがアカデミック・キャリアにおいて格闘しようとした問題だった。
担当:石田健