ロシアとウクライナ、そして欧米諸国との間で緊張が高まっている。
ロシアはウクライナ国境付近に10万人(*1)を超える規模の兵力を集結し、ウクライナ軍も戦闘に備えて国軍を配備した。アメリカやフランス、ドイツといった欧米主要国はロシア・ウクライナ両国との外交的対話を継続しつつも、兵力の東欧派遣や北大西洋条約機構(以下、NATO)加盟国の派遣体制整備を進めている。例えばアメリカは、すでに3,000人規模の兵力増強を展開している。
ウクライナをめぐって何が起きているのか?また、ロシアはなぜいま、ウクライナを狙うのだろうか?
(*1)ロシア軍の規模は12万7,000人以上とみられ、地上軍兵士は10万6,000人余で、これに海空両軍の要員が加わる。
地政学的背景
ウクライナ問題を理解するため、その地政学的背景と東西関係の文脈における歴史を遡っていこう。
NATOとロシアの間
ウクライナは、第二次世界大戦以降続く東西対立の緩衝地帯としての地政学的な重要性を持つ国だ。
旧ソ連構成国のうち、第2の人口規模(4,159万人)を持つ同国は、東にロシア、北にベラルーシ、西にポーランドやルーマニアと国境を接している。まさに、NATO勢力とロシアとの間に位置している。
ウクライナ(Google Map)
ウクライナは、ソ連崩壊に伴って1991年に独立。前年に採択された共和国主権宣言では「将来において、恒久的な中立国となり、軍事ブロックに加わらないことを宣言する」と明記した。これに基づき、ウクライナは中立国(*2)としての立場を取ってきた。以降、ロシアや他の独立国家共同体(CIS)諸国(*3)との間では限定的な軍事提携を結びながらも、1994年にはNATOとも提携(*4)を結んでいる。
(*2)ウクライナにおける中立は共和国共同宣言の内容に基づくものであり、国際法や条約に基づくものではない。この点においてウクライナは、他の欧州中立国と同様、「軍事ブロックに関わらない」ことで「中立性」を維持している。なお、集団防衛を規定するNATOは軍事ブロックであるが、その中の「平和のためのパートナーシップ(PfP)」に参加することは軍事ブロック加盟に当たらない。ただしウクライナの提唱する「NATO準加盟ステイタス」が軍事ブロック加盟に該当するか否かについては議論の余地があるとされている。
(*3)旧ソビエト連邦の構成共和国で形成された国家連合の独立国家共同体 Commonwealth of Independent Statesの略称。本部はベラルーシの首都ミンスクに置かれる。1991年12月、バルト三国とジョージアを除いたロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、キルギス、モルドバ、アゼルバイジャン、アルメニアの11か国によって共同体創設のための議定書調印が行われた。これによってソ連は消滅した。
(*4)なおロシアは、2002年にNATOとの間で「NATO-ロシア理事会」を設置している。
苦難の歴史
ウクライナが中立国としての立場を選択する背景は、中世ヨーロッパの動乱から東西冷戦における米ソ対立まで、幾度となく不安定な緊張関係に巻き込まれてきた歴史的経緯がある。
中世以降、ウクライナ地域は主に西部をポーランド、東部をロシアによって支配されてきた。8世紀ごろにウクライナ地域にルーシと呼ばれる国が誕生した。13世紀にはモンゴル帝国の侵攻によって同国は一度崩壊したものの、周辺国への従属期間を経て、14世紀末には主に西部をポーランドが統治し、東部はモスクワ大公国(のちのロシア)に属するようになった。以後も長期にわたって、ウクライナ地域はロシアおよび欧州大国による「取り合い」が続く。
第一次世界大戦が勃発すると、2月革命(1917年)によるロシア帝政崩壊によってウクライナ人民共和国が、オーストリア・ハンガリー帝国の解体により、西ウクライナ人民共和国がそれぞれ独立を宣言した。しかし、ウクライナ独立戦争(1917-1921年)を経て、西ウクライナのポーランド支配、ロシアの傀儡政権であるウクライナ社会主義ソビエト共和国による占領、さらに多民族国家を建国したクリミア地域はモスクワのソビエト政権により支配をされた。
ソビエト政権は、ウクライナ地域における敵意を鎮めることを目的に、当初はウクライナ語教育の普及等に代表される「ウクライナ化」政策を進めたものの、党内からの批判が上がり「ロシア化」に方向転換した。レーニンやスターリンといった支配者による農民への厳しい政策は2度にわたる大飢饉をもたらし、長期に渡る弾圧政策が続いた。
第二次世界大戦(1939-1945年)中のウクライナ地域は、ポーランドによるソ連侵攻(1939年)、ナチス・ドイツによる侵略(1940年)、ハリコフ攻防戦(1941-1942年)などを通して激戦地と化し、ホロコーストの舞台となるなど膨大な死者を出した。
戦後ウクライナと独立への道
戦後のウクライナは、引き続きソ連の一部として存続した。1953年にスターリンが死去すると、大粛清によって多数の犠牲を出したウクライナ人の名誉の回復、ならびにウクライナ特有の文化への再興意識が高まっていく。ニキータ・フルシチョフ政権は、ロシア・ウクライナ間でのペレヤスラフ条約(*5)締結300周年を記念して、長年ロシア側に属していたクリミア半島をウクライナに移管した。
その後のミハイル・ゴルバチョフ政権時代は、ウクライナ民族運動の最盛期であった。「ペレストロイカ」と呼ばれた政治改革の中、ウクライナでは「ペレブドーヴァ」と呼ばれる解放運動が拡大。弾圧されてきたウクライナ語の使用やウクライナ人文学の再興などを訴え、1990年の共同主権宣言の重要な基盤となった。
こうして、ウクライナは1991年に独立を実現して以降、外交面では中立国としての脱ロシアと国際社会への参入、内政面では「ウクライナ化」によるネイション・ビルディングを通してその国家的アイデンティティの強化を目指してきた。
以上、ウクライナが不安定な歴史を乗り越えて中立国となるまでの歴史を振り返ってきた。
こうした歴史を踏まえつつ、旧ソ連構成国との友好的な関係性を維持しつつ西側諸国との連携を強化していく流れの中で、ウクライナが過度にNATO側に接近することは、西側・東側諸国双方にとってデメリットが大きいという指摘もある。これは当然、同国による親ロシア化の動きにも当てはまる懸念だ。つまり歴史的に不安定な地域において、ウクライナの中立性が揺らぐことは、東西緩衝地帯としての同国の立場が不安定になる可能性を意味しているのだ。
実際に2000年以降、軍事だけでなくエネルギー政策や経済協定などにおいて、東西との利害関係が複雑化するに連れて、この「中立性」には様々な軋轢が生じていく。
(*5)1654年にウクライナのペレヤスラウにおいて開催された会議およびそこでの決議。ウクライナがポーランドと戦うために、一時的にロシアから支援を受けることとなった。これをきっかけにロシアはウクライナによるポーランドからの独立戦争に介入し、東欧における影響力拡大に成功したと言われる。
中立から親ロシア路線へ
中立国としてのウクライナは、その後徐々に親ロシア路線へシフトしていく。
2004年のオレンジ革命において、当初の選挙結果の不正を唱えて抗議活動が拡大した結果、再選挙を通して親欧米派のヴィクトル・ユシチェンコ政権が誕生した。しかし、成立直後から内部抗争等が相次いだ結果、ユシチェンコ政権の支持率は急速に低下する。
新欧米政権の後退は、対する親ロシア政権の台頭に繋がった。2010年、一度はオレンジ革命で敗れたヤヌーコヴィチが、大統領選挙において当選した。彼はウクライナ東部出身で、親ロシア派として知られている。
2013年には、リトアニアで開催された東欧パートナーシップ会合において、欧州連合(EU)とウクライナの間で仮調印が済まされていた政治・自由貿易協定(*6)の正式な調印が見送られた。これはヤヌーコヴィチ大統領に対するロシアの圧力が大きく影響したとみられている。ウクライナはこうして徐々に欧州との距離を取り、ロシアとの経済連携をより強化していった。
一連の方針転換は、国内の親欧派による大規模な反発を招くと同時に、2014年のウクライナ危機につながる重要な契機となった。
(*6)本協定は、ウクライナのEU加盟を約束するものではなく、EUとウクライナが政治的・経済的安定化を目的とした連携を促進するものである。ポロシェンコ政権によって2014年に正式に署名された。
2014年ウクライナ危機
2014年のウクライナ危機は、大きく4つのフェーズに分解して理解することができる。尊厳革命(別称:マイダン革命)、クリミア併合、ドンバス戦争、そして停戦に関するミンスク合意だ。
親ロシア政権を打倒した尊厳革命
ヤヌーコヴィチ大統領の親ロシア的な政権方針は、親欧派による大規模なデモを引き起こした。「Euromaidan(ユーロマイダン)」と呼ばれる首都キエフ市内の広場では、デモ隊と政府側治安部隊との衝突が生じ、100名以上の死者を出す大惨事に発展した。
政府系施設の占拠や権力者への襲撃が拡大し、混乱の責任が政権に対して問われ始めるにつれ、大部分の閣僚が失踪した。ヤヌーコヴィチ大統領はプーチン大統領の支援を受けてロシアへの逃亡を図り、政権は事実上の崩壊に追い込まれた。
治安部隊による抑圧行為には、ロシアによる圧力の存在が指摘されている。ロシア当局はキエフでの抗議を早期に鎮圧するようウクライナに迫っており、欧州主要国はロシアが事態を大きく悪化させたと厳しく非難した。
「尊厳革命」と呼ばれる一連の混乱ののち、ウクライナでは新たにポロシェンコ政権が発足した。ポロシェンコ大統領はEUとの関係を緊密にするととともに、東欧地域における平和の再構築を目指すとした。
ロシアによるクリミア併合
親ロシア派大統領が国民の行動によって事実上の国外追放となると、ウクライナに対するロシアの行動も加速した。まず論点となったのが、ウクライナ南部に位置するクリミア半島だ。
クリミア半島をめぐる歴史は、18世紀のロシア帝国時代に遡る。不凍港を求めて南下を続けたロシア帝国は、1783年にクリミア・ハン国を征服。その後、半島にはロシア人やウクライナ人などが入植を始め、帝国の重要な部分を形成していった。
クリミア半島の湾岸都市セヴァストポリは、黒海から地中海へ通ずる重要拠点であった。それは軍事的・経済的な戦略拠点となりうることを意味し、同じく黒海進出を目論むイギリス・フランスとロシア帝国との間では、クリミア戦争(1853-1856年)の主戦場となった。
旧ソ連においても、クリミア半島の重要性は注目に値するものであった。同連邦体制下では、クリミア自治ソビエト社会主義共和国として自治権を有した。
2014年の尊厳革命によってウクライナ国政が事実上の機能不全に陥ると、クリミア半島では新政権への支援派と、独立を求める親ロシア派での対立が過激化した。ロシアは独立派のデモに対する支援に加え、「クリミア半島におけるロシア系住民の保護」を掲げて軍事侵攻を開始した。ロシア軍が半島を掌握すると、住民投票の結果に基づいてウクライナからの分離、およびロシアへの編入が決定された。
ウクライナ東部の戦火
キエフの騒乱とクリミア併合は、クリミア半島だけでなくウクライナ東部の分離独立派も刺激した。
「ドンバス」と呼ばれるドネツィク州とルハーンシク州では分離独立派の抗議行動が加速した。それぞれの地域は「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」を自称し、ウクライナ政府側部隊との間で武力衝突が起きた。
「ドンバス戦争」と呼ばれるこの混乱は、その後複数回にわたり停戦協定が結ばれては破棄され、現在も恒久的な停戦の見込みは立っていない。またドンバス地域における分離独立派に対して、ロシアの継続的な支援や組織的な政治活動が展開されており、ウクライナ側との関係性は複雑化している。
停戦を目指したミンスク合意
ウクライナ東部における紛争は、2014年のミンスク議定書、2015年のミンスク2を通して停戦が試みられた。
ミンスク議定書は、ウクライナ、ロシア、そして分離独立を求めるドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国との間で調印された停戦合意である。しかしながら、調印直後にドネツク国際空港で武力衝突が生じ、両勢力が相互に合意内容違反を批判した。ミンスク議定書における停戦は即座に失敗に終わった。
2015年のミンスク2は、前年のミンスク議定書を効力を復活させる目的で調印された。当時のフランス・オランド大統領とドイツ・メルケル首相が基礎となる和平計画を提案し、紛争地帯前線からの銃火器の撤退、ウクライナにおける憲法改正などを盛り込んだ内容で合意がなされた。
ミンスク合意により、ウクライナ東部における武力衝突は概ね沈静化した。しかしながら、調印後も小規模な砲撃等が発生しており、死者も出ていると報じられている。ミンスク合意における規定内容の遵守実態については、懐疑的な見方が強い。
NATO問題、強いロシア、民族的「近さ」?
これまで、2014年のウクライナ危機までの歴史的な契機を振り返ってきた。
クリミア半島と東部ドンバスでの分離独立の機運を高め、多数の死者を出した混乱は、ミンスク合意を機に一見落ち着いたように見えた。しかしながらロシアの継続的な介入の影響もあり、小規模な衝突は依然として継続してきた。緊張関係は依然として残ったままである。ではロシアは、なぜいま再びウクライナ侵攻への姿勢を強めているのだろうか?