前回記事では、ウクライナの歴史についてキエフ大公国の誕生からヘーチマン国家の滅亡、そしてポーランドによる支配までを見てきた。それは、ロシアやウクライナなどを生んだキエフ大公国の滅亡後、近世にかけて「ウクライナ」のアイデンティティが高まっていくものの、長い間、独立国家を持つことが出来なかった歴史でもあった。
今回は、ソ連の誕生から現在までの激動の現代史を見ていく。現在のロシアとウクライナの複雑な関係性は、この時代に規定されたものが多い。逆に言えば、この時代を見ることで両国が直面する政治的・社会的緊張関係の見取り図を手に入れることが出来るだろう。
ウクライナ独立戦争(1917 - 21年)
1917年、2月革命による帝政ロシアの崩壊および10月革命によるソビエト(ボリシェヴィキ)政権の樹立によって、ウクライナにも大きな変化が訪れた。ソビエトの誕生は、ウクライナの歴史を国際政治の混迷へと引き込んでいく。
1917年、キエフのソフィア広場における中央ラーダによるデモ(Unknown author, Public Domain)
この時期、すなわち1917年から21年までの一連の紛争は、ウクライナ独立戦争と呼ばれる。主要な交戦主体は、
- ウクライナ人民共和国(中央ラーダ)
- 親ボルシェビキ派(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)
- ウクライナ国
の3つだ。このうちウクライナ国については、1918年4月29日から12月14日までの短期間で消滅しているため、ウクライナ人民共和国(中央ラーダ)と親ボルシェビキ派(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)の関係を中心に見ていこう。
ボリシェヴィキ政権の誕生
ウラジーミル・レーニンが率いたボリシェヴィキ(政党名、当初は「多数派」の意味)は、武装蜂起によるクーデター(10月革命)を成功させ、ソビエトでの政権を確立する。
世界中で社会主義が影響力を持つ中、ソビエトにおいて社会主義革命が実際に成功したインパクトは大きく、周辺国の政治勢力にも大きな影響を与えた。それは、帝政ロシアの支配下にあったウクライナでも例外ではなかった。
ウクライナ国内の政治勢力は、自国の独立を目指しつつも、ソビエトのボリシェヴィキ政権との協力関係を築くか、それ以外の道を探るかという選択を迫られることになる。
ウクライナ人民共和国(中央ラーダ)
1917年11月7日、ボリシェヴィキ政権を支持しない中央ラーダ(ウクライナ語で「中央議会」の意味)は、議長にムィハーイロ・フルシェフスキーを選出して、キーウを首都とするウクライナ人民共和国の樹立を宣言した。
ムィハーイロ・フルシェフスキー(Unknown author, Public Domain)
中央ラーダは当初、ロシアとの直接的な対立を避けて、限定的な自治権を得ることで、ウクライナの独立を漸進的に獲得しようとしていたが、暴力的なボリシェヴィキ政権の姿勢に反発。1917年12月には、両者の対立が鮮明化していく。
ソビエト・ウクライナ戦争
キエフの聖ムィハイール黄金ドーム修道院の前に集まった中央ラーダ兵士(Unknown author, Public Domain)
ボリシェヴィキ政権にとって、ウクライナは産業および経済的な重要地域であり、ロシアからの独立を認めることはあり得なかった。
そこで1918年2月、ボリシェヴィキ政権は革命遠征軍を派遣して、キーウで中央ラーダ部隊と激しく交戦する(第1次ソビエト・ウクライナ戦争)。中央ラーダは首都キーウを奪われたものの、後にドイツとオーストリアの力を借りて、3月に入ってから首都奪還に成功する。
ところが1918年11月17日、第一次世界大戦においてドイツ・オーストリアが敗北すると、ボリシェヴィキ政権は、再びウクライナに侵攻(第2次ソビエト・ウクライナ戦争)。最終的に1921年3月18日、ポーランドとソビエトによってリガ条約が結ばれ、西ウクライナはポーランド領、中部・東ウクライナはソビエト領となる。
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
この中央ラーダと対立していたのが、親ボリシェヴィキ派(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)だ。彼らは当初「ウクライナ人民共和国」(中央ラーダのウクライナ人民共和国と同名)と名乗っていたものの、ウクライナ国内でボリシェヴィキ派への支持は低調だった。
ところがウクライナ国内で、中央ラーダの支持が低下するとともに、軍人によるクーデター(ヘーチマンの政変)が起こったことで、中央ラーダは瓦解する。その結果、ウクライナ国という新たな政治勢力が短期間にわたってウクライナを統治するものの、ウクライナ国と中央ラーダの残党の争いが続く中で、漁夫の利を得たボリシェヴィキ派が力を得ることになる。
中央ラーダなどの残党は、1921年頃までに掃討され、ここにウクライナ独立戦争は終焉を迎える。ボルシェビキ派は、何度かの名称変更を経て、最終的にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国(1939年)となり、ウクライナは完全にソビエトの影響下へと入っていく。
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(1921 - 1939年)
中央ラーダによる独立に失敗したウクライナは、今度はソ連の影響下のもとで、1991年のソ連崩壊までの歴史を歩むことになる。コサック国家以来の独立国家樹立という悲願は、再び達成されることなく、新たな苦難の時代が始まるのだ。
ウクライナ化から反ウクライナ化(1920年代 - 1930年代)
ソ連の影響下におけるウクライナは、1920年代のウクライナ化、そして1930年代の反ウクライナ化という2つの異なる経験をする。
中央ラーダによって、一時的にせよ自らのアイデンティティに根ざした政府を獲得したことは、ウクライナに大きな意味をもたらした。ソビエト政権もそれを無視することはできず、ウクライナへの懐柔政策として、共産党におけるウクライナ人の登用やウクライナ語の復権、民族主義に根ざした教育・文化政策の採用などが進められた。(ウクライナ化)
ところが1930年頃、ソビエト政権においてヨシフ・スターリンが権力掌握に成功すると、政策は180度転換する。
ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン(U.S. Signal Corps photo., Public Domain)
「ウクライナのブルジョア的ナショナリズム」が批判され、同国の民族主義やアイデンティティに関する制度や文化、政策などは次々と潰されていく。ウクライナの知識人や作家、芸術家、学者などは大半が追放・処刑され、ウクライナ語の出版物は禁止される。教育ではロシア語が採用された他、ウクライナの共産党員17万人は粛清に至る。(反ウクライナ化)
ホロドモール(1932年)
ウクライナにおけるソビエト政権による苛烈な政策としては、ホロドモールが知られている。ホロドモールは1932年から33年にかけて、人為的な理由によってウクライナで発生した大飢饉を指す。
ハリコフの路上で飢えた農民、1933年(Alexander Wienerberger, Public Domain)
1930年代のソビエト政権は、集団農場(コルホーズ)や国営農場(ソフホーズ)に農民を加入させる「集団化」という政策や、自営農地や家畜を所有する比較的裕福な農民(クラーク)の撲滅運動を実施していた。この結果、農業そのものが立ち行かなくなり、多くの国民が飢餓に直面した。
加えて、ソビエト政権はノルマとして収穫物の大半を収奪したため、ウクライナでは300万人以上が死亡したと考えられている。この政策に、ウクライナ人への虐殺・弾圧の意図があったかは現在でも議論が分かれているが、少なくともソ連時代の悲劇的な経験として、現在でも強く記憶されている。
第二次世界大戦(1939 - 1945年)
第二次世界大戦の独ソ戦(1941 - 1945年)において、ウクライナは激しい戦争の舞台となった。キーウやハリコフ、オデッサなどは主要な交戦都市となり、第三次ハリコフ攻防戦など重要な戦闘も展開された。